2015年12月08日

日本SFコミュニティについて考えること(その12)

(その11からの続き)

【未来を創る】

「おたく」の精神性のなかには、実証的にどうだと言えるわけではないが、印象として「こんな傾向や特徴はあるんじゃないか」と思えるような部分がある。
 繰り返すが人の気質について語るのは難しいところであって、決して断定的に何かを言ってはいけないと思うし、それで雑に他者を批判したりすることも避けなければならない。そうではなくて、私がここで言いたいのは、むしろ印象論だとわかった上で、それでもこんなふうにふだんから気をつけることはできるじゃないか、これなら自分でも参加できると、ひとりひとりが思って実践できたならそれでよいということなのだ。
 そうした部分で少しずつよくできることはある。
 ひとつは、噂話、ゴシップだ。SFコミュニティのなかには、噂話、ゴシップが好きで、野次馬的に刹那的な行動を取ってしまう人がわりと多いような気がしている。どこかで罵り合いがあると、わくわくしながら注視して、その場のコメントをツイッターや匿名掲示板に書き込んだりする。
 以前のブログ(削除済み)でも紹介したが、クリストファー・ボーム『モラルの起源』(紀伊國屋書店)では噂話について面白い仮説が展開されている。私たちヒトはもともと小規模狩猟採集民であり、小さな社会のなかで物事がうまく進むよう道徳は進化してきた。このような小さな共同体だと、集団の安全を守るために噂話がよく発達したのではないか、とボームはいう。小さな集団で生活するなら、誰かひとりでも外れた行動をすると、集団全員が危険にさらされてしまう。だからみんなが同じように考え、行動することが求められる。
 そしてこうした小共同体では、集団にとって危険と思われる人物の情報を素早く共有し、村八分にするために、噂話が効果を発揮するというのである。
 なるほどと思える見解で、実際にいまでも小さなコミュニティでは、このようなことがよく見受けられるのではないだろうか。
 先にも書いたように私の印象だが、SFコミュニティの人たちはわりと共感性が高いように思える。仲間同士で集まりやすい。いったんどこかに方向性を決めたら、みんなで揃って力を発揮できるというよい面もある。東日本大震災のとき、日本SF作家クラブが募金を呼びかけ、わずか数日のうちにSF作家やSFファンから100万円以上が集まった。新井素子会長と井上雅彦事務局長時代の快挙とも言える出来事だったが、SFコミュニティのみならず広くSFファンの共感性が発揮されたすてきなシーンだったと思う。
 しかしこの共感性は、あるときは誰か集団内で都合の悪い人が出てきたらいっせいにパージする、という方向に進んでしまうかもしれない。
 噂話は仲間の絆を強め合う。野次馬的にどこかの現場に集まって、互いにあれこれ言うのは楽しい。やはり実証的ではないしそのような研究例があるかどうかわからないが、これも共感性の作用のひとつかもしれないと私は感じる。しかし、他人の火事を見てあれこれ話すのは楽しいが、これが自分のことだったらどうだろうか、本当にここで騒ぐことはよいことだろうか、というエンパシー能力は、あまり発揮されていないように思えるときもある。
 そして「騒ぎ」がいざ自分たちの身に降りかかると、ついおたおたしてしまう。世間からの注目が強いストレスとなって、ふだんならやらないようなことをやってしまう。どうしよう、と仲間同士でメールし合い、そうしたうろたえたやりとり自体が「騒ぎ」のもとになってしまう。緊張に耐え切れず何か言いたくなって持論を公表し、混乱に拍車をかけてしまう。問題の根本的な解決を図ると言うより、「騒ぎ」を起こした人物を特定し、その人をパージすれば平和が戻るのだとつい考えてしまう。
 誰かが正しいと思えるようなことをいっても、もめ事に巻き込まれるのは面倒だからという理由で沈黙し、関わらずに生きてゆくという選択肢が採られがちになることもあるかもしれない。だがみんながこれをやると、事態は深刻になる。
 日本心理学会監修『思いやりはどこにあるの?』(誠信書房)にも紹介されている有名なケースがある。ある女性がアパートの前で暴漢に襲われた。女性は助けを求める叫び声を上げた。アパートの住人たちの多くがその声を聞き、事件の現場を見ていたにもかかわらず警察への連絡をせず、女性は殺されてしまったという実際の事件だ。一般に人助けが求められているとき、周りに人が多くいるほど人助けが起こりにくくなる。これが傍観者効果だ。
 傍観者効果は「個人的責任の度合いの判断」モデルとしてよく引用されている。STAP細胞事件のとき、この件について公の場であれこれ話すなという上司からの口止め要請が理系社会のなかで実際にあったという話もあるが、そうした要請がなくても結果的に傍観者効果は起こりうる。個々人が自由意思で動いているはずの社会でも、ひょっとすると周りの人たちを仲間と考えがちな小共同体では、共同体内で問題が起きても「自分が動く必要はない」「自分は無関係である」と考え、そこで何も言わない人同士で共感性が高まって、傍観者効果がより顕著に起こるかもしれない。
 こうしたことは、ひとりひとりが気をつけることで、社会をよい方向へ持ってゆくことができる。
 SFコミュニティの人は、もともとふつうの人よりも「相対化」ができる人たちだと私は思う。その能力はあるのだ。自分が虫の視点にあることを意識した上で、その自分を相対化することはきっとできる。
 精神的にストレスが生じたとき、まず自分自身を相対化し、客体化することで、そのストレスとの連結を断ち切ることができる、という方法はよく知られている。
 メタ道徳の実践が大切だ。ジョシュア・グリーンは著書『モラル・トライブズ』で、実はこのメタ道徳の実践にもっとも有効なのはプラグマティズムだといっている。功利主義というといろいろ誤解も多いので、彼は「深遠な実用主義」といい直しているが、自分の幸福がより増えるように判断する、ひいては社会の幸福度が全体として上がるように判断してゆく、という考え方がメタ道徳には有効だと彼はいっている。SFコミュニティの多くの人は、この考え方にわりと賛同できるのではないだろうか。
 ここまでは、印象論から出発したからこそ、みんなで少しずつ実践できることになっている。しかしそれだけでは解決できない、個別の問題がある。

 あともう少し。最後に、人間の本性、人間の弱さについて。

(休憩。その13に続く)
posted by Hideaki Sena at 15:29| 仕事

日本SFコミュニティについて考えること(その11)

(その10からの続き)

 この文章はTogetterを参照するところから始まった。Togetterというのは「まとめ」であるようでいて、実は作成者による環世界が表現されているわけだ。
 だから本当は、きちんとした議論には向かないのだと私は思う。「まとめ」というとそこに客観性があるように思えてしまうから、「あの発言が入っていないじゃないか」「このまとめ方は自分の感じ方と違う」などと、作成者の無意識のバイアスに苛立つ当事者も出てくるに違いない。
 近い将来、こうしたTogetterのような機能はそれこそ人工知能がやればよいと思うが、それではまとめるという楽しみが奪われてしまうのだろうね。ここにも人間の本性に通じる部分がある。またどの程度のバイアスを織り込みながらまとめられるか、そのくらいであれば公平な感じが出せるのか、という課題は、人工知能研究にとっても面白いものになるかもしれない。

 むかし10代だったころ、『小松左京のSFセミナー』(集英社文庫)を読んで、「うーん、やっぱり日本SF大会に行ったり、ファン活動をしたりしないと、本当のSFファンではないのかなあ……」と無垢に思ったりしたものだ。まあそういう世界への憧れも少しはあった。いま考えると、これは私自身がSFへの憧れと、SFコミュニティ社会を取り違えていたということになる。
 では、「SF」の精神性とは、どのようなものだろう。端的に言えば、未来へ想いを馳せる精神性となるだろう。
 科学や技術の本質とも近い精神性であるからサイエンス・フィクションであるわけだが、初期の日本SF作家のうち、たとえば星新一さんや小松左京さんの作品群に鮮やかに見られるものであった。しかし狭義の科学技術だけでなく、たとえば社会というものの未来を考えようとしたのは眉村卓さんであったし、精神理論や文学理論とも繋げながら社会や人間のあり方を描いたのは筒井康隆さんだった(かなり大雑把にいっています)。こうした作家を読んで育った人たちなら「SF」の精神性というものに対するある程度の共通認識はあると思うから、 SFファンなら「SF」環世界のベン図は重なり合うはずだという思い込みもかつてはあっただろう。
 いまでいうと、このようなストレートな「SF」の精神性は、たとえばレイ・カーツワイルとか、ミチオ・カクあたりに受け継がれているのではないかと思う。でもこういう人たちは、少なくとも日本では、SFの人だとはあまり思われていない(海外だとまた違うかもしれない)。
 彼らもおたくには違いないだろうが、「おたく」の精神性≠ゥら外れるからだと思う。精神史の共有感が希薄だからだ。しかし科学者や研究者でおたくっぽい気質を持つ人は、わりとカーツワイルが好きだ。比較的バランスが取れた人ならカクが好きかもしれない。それぞれ別の社会に行けば、彼らと精神史を共有できる人がいるということだ。
 私がここで話してきた「おたく」の精神性とは、広義で言えばこうした精神史を共有できる何かということになるのだろうが、いまここではもっと限定的に、戦後SFの歴史と微妙に重なり合ってきた「おたく」の精神性について書いている。しかしいくらか視点を変えれば、他の分野における「おたく」の精神性にも当て嵌まる部分があると思う。
「おたく」の精神性を共有する人たちは自然と集まり合うことで、ゆるやかな共同体が形成されてゆく。そこで道徳観がつくられ、道徳部族が起ち上がってゆく。実際にファンサークルといった共同体に参加したことのない人でも、精神として繋がっている場合はあるかもしれない。道徳部族は厳密にどこか特定の集団を指すわけではないからだ。
 さて、ここまでさほど突飛な話をしてきたわけではない。だが順を追って書いてきたのは、この文章の最後に、もう少し先の話をしたいからだ。
 現代において、いろいろとSFコミュニティのなかでゆがみが顕在化してきているように見える。この原因はそれぞれどのように考えられるのだろうか。「SF」の精神性と「おたく」の精神性の取り違えということがあったとして、そこにあるさまざまな側面が別々の問題を生み出しているように思えるし、またたんに取り違えと言うことばかりではなく、人間の本性そのものに起因するものもあるように思える。

(その12に続く)
posted by Hideaki Sena at 15:28| 仕事

日本SFコミュニティについて考えること(その10)

(その9からの続き)

【精神性】

「SF」というものについて、一般読者とSFコミュニティ内部ではその捉え方が違う、ということは、たぶん多くの人が納得していただけるところではないかと思う。ここを出発点にしよう。
 ここでいま、SFのことが話題になっているとする。一般の人は自分たちの感覚の範囲内でSFについて語っている。ところがSFコミュニティの人たちは、いつのまにか「おたく」の精神性について語っている。そしてその精神性が、あたかも「SF」の精神性であるかのようなまとめ方をする。一般の人たちは、そこがうまく理解できず困惑する。このような状況は、いろいろなところであるように思える。
 ひとつ例を挙げよう。長山靖生さんの著作『日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで』『戦後SF事件史 日本的想像力の70年』(いずれも河出書房新社)だ。最初の本はまさに日本「SF」の精神について広く資料を参照しながら追っているのだが、二冊目の本になると著者のサブカル的な個人史という雰囲気が強くなってくる。「SF」の精神性から「おたく」の精神性への変化が、この二冊の間にあるように私には思える。そして「おたく」の精神性が「SF事件史」と言うタイトルでまとめられている。事件を起こしているのは多くの場合「おたく」の精神性なのだと思うが、結果として表面に出てくる事象は「SFの事件」と認識される。本当は二冊目の書名は『戦後おたく精神史』であってよいのに、『戦後SF事件史』になっている。
 とりわけある世代にとって、「SF」の精神性と「おたく」の精神性は非常に近いものだった。コミュニティ内部からの視点であれば、そこはとくに切り分けなくてもよかった。しかし外部の視点からすると、そこの部分がぐずぐずであるように見えることは、大きな問題であると感じられる。それはなぜかというと、「SF」の精神性には興味があるが「おたく」の精神性にはあまり興味がない、という価値観の人が外部には存在するからだと思う。あるいは自分のなかにある「おたく」の精神性は別の分野、たとえば科学技術の研究活動の部分で発揮したいが、SFに接するときは純粋な読者でいたい、という人も少なくないはずだ。そうした読者が抱くSFコミュニティへの期待像が、実際のSFコミュニティと齟齬を来す、ということはよくあるように思える。
 もう少し言うと、『日本SF事件史』ではなく『戦後SF事件史』であるのは、事件が著者の人生と重なり合っているからで、著者自身の視点位置からのSFということになっている。自分が直接見聞きしたのではない幕末・明治時代なら『日本SF精神史』になるが、自分が生きてきた時代になると、自分の視点が大きくなるかのようだ。
 私はこれまで何度か、視点位置の問題を小説のテーマにしてきた。サイエンスの分野でもこれは重要なテーマで、先に紹介した内藤朝雄『いじめの構造』やジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ』も、大集団(広く人間社会)における個々の小集団(小学校のクラス)の視点をどのように捉えるか、小集団間の相互作用はどのようなものか、といった問題が取り上げられていた。人工知能研究者の中島秀之は、かねてから虫の視点と神の視点の違いに着目し、虫の視点から見たエージェントの知能を考え続けている。著書『知能の物語』(公立はこだて未来大学出版会)が参考になる。
 私たちは基本的に、虫の視点で世界を見ている。私とあなたはどちらも虫だ。地面に足をつけて、世界を見ている。二匹の虫が出会って何か共通の話をしようとするが、どうも世界観が合わない、ということがある。同じテーマを話していても、それぞれの虫が見る世界は違うからである。
 これも私の印象だが、SFコミュニティの人たちと話しているとき、「自分には関係ない」とか「みんなそう言っている」といった言葉を聞くことが意外とよくあって、その関係なさ加減≠竍みんなの範囲≠ェ自分とずれていて戸惑うことがある。私が注意してそうした言葉を聞いているので、意外とよくある、と思ってしまうのかもしれないが、これも見え方の違いだということになるだろう。私がある話題をしていて、それはSF社会のあり方について大切な話だと思っている。しかし相手は自分の興味の範囲外である。一方で、彼が自分の交友関係に広がる世界を見渡すと、ある別の事象については「みんなそう言っている」。私の方が考えているSF社会のベン図と合わないので、「そうかなあ? 本当にSF社会ではそれが主流なのかなあ?」ということになる。
 こちらの方としては、むしろ相手の方がSFの専門家であって、その世界での業績に敬意を払っている。こちらは外部の人間として話しかけている、という感じだ。相手の専門に乗っかるかたちでSFの話をする。ところが自分のSFのベン図と合わない。ここからは私の仮説だが、なぜそういうことになるのかというと、たんに「SF」の捉え方が違う、というだけの話ではなくて、もう一歩踏み込んで考えるならば、相手は自分の生きてきた精神史を通してSF世界のベン図を描いており、それが彼の「おたく」精神史とかなりオーバーラップするかたちで環世界が語られるからではないか、と思うのだ。ちなみに「環世界」というのはユクスキュルが唱えた動物行動学の概念である。「おたく」の精神性がある程度切り離された「SF」環世界と、それが自然にオーバーラップした「SF」環世界では、互いに齟齬が生じるのも無理はない。ところが、向こうの方がSFに詳しい、むしろSFの専門家であるために、向こうの「SF」環世界のほうがあたかもより正確なSF社会の世界観であるかのように判断されるケースが出てくる。
 もちろんひとりひとりの生き方は違うので、それぞれの環世界も異なるのだが、その人の「おたく」精神史と影響し合いながら「SF」世界観が創られているという点では似ている。
 ちょっと難しい表現が続いてしまったが、直感的には理解していただけるのではないかと思う。ここが一般読者とSFコミュニティの齟齬の第一歩だと私は思っていて、ここにいろいろなことが付随して、ときに人々の価値観や道徳観の相違が顕在化しているのだと考えている。
 本当は、このふたつの環世界は、それぞれ別々の名前で区別した方がいろいろと混乱せずにすむのではないかと思うのだ。私にはまだうまい言葉が見つからない。日本SF作家クラブだとか、日本SF大賞とか、日本SF大会といったとき、その名称のなかにある「SF」という言葉をどう捉えるか。少しずつその人の「SF」環世界によって異なってくる。そしてそれぞれの実態もまた、それを運営し、集まる人々の背景によって変わってくる。なかでも価値観の違いが顕在化しやすいのは、「おたく」の精神性を背景に持つ人と、あまりそういう背景がなく「SF」を「SF」の精神性として捉える人が向き合ったときなのだろう。

(その11に続く)
posted by Hideaki Sena at 15:27| 仕事