2015年12月07日

日本SFコミュニティについて考えること(その9)

(その8からの続き)

 東日本大震災が発生したとき、私たちはシンパシーとエンパシーを試された。被災の状況をテレビで見て、どうしよう、と最初は強い共感性によってうろたえるが、やがて、自分も何かしなくては、と他者のことを考えて行動に移す。シンパシーとエンパシーが発揮されたのである。このような人間の心のあり方によって、被災地はとても救われたはずだ。
 しかし、どうしよう、と共感性によって心を揺さぶられた後、やみくもに被災地に行って他者に迷惑をかけたり、現地で必要かどうかもわからないものを送りつけたり、となると、本当に他者の気持ちを忖度できていたのだろうか、と深い相互理解の議論になることも私たちは学んだ。
 震災のときにはたくさんの噂話が飛び交った。2009年の新型インフルエンザのときには、いろいろな専門家が出てきてそれぞれ持論を主張した。
「正確な情報をもとに、落ち着いて行動を」というアナウンスはよく見かけるが、これはクライシスコミュニケーションの見地から言うとほとんど意味がないというか、かえって逆効果なのだそうだ。いったい何が「正確な情報」なのかよくわからない状態でこのように言われても混乱するし、「落ち着いて行動を」といわれると「ではいま私は落ち着いていないのか、何ということだ」とかえって焦ってしまうからなのだそうだ。
 次々と「専門家」が出てきてあれこれ意見をいうことも、社会的な混乱に拍車をかける原因なのだと聞いたことがある。専門家同士で話がまとまっていない、という印象を人々に与え、かえって動揺を広げてしまうからだそうだ。ばしっとひとつの専門団体が意見をまとめて出てきて、的確な見解を発表する方が、人々は安心するらしい。
 以前に私は『インフルエンザ21世紀』(文春新書)という本を書いた。ここで私はクライシスコミュニケーションのことも記しているので、もし興味があればぜひ手にとっていただきたいと思う。多くの現場に当て嵌まることを書き込んだつもりだ。もちろんそれはSFコミュニティの現場にも当て嵌まると私は思っている。
 どうしよう、と焦ったとき、私たちは仲間内で情報共有しようとするものだが、これが「騒ぎ」に拍車をかけてしまう場合もある、というのがやはり私の印象だ。
「ご注進、ご注進」とばかりに、いま起きている「騒ぎ」を誰かにメールで伝えたり、「誰かあの人にやめろといってやれ」と、あまり意味のない言葉を呟いてしまったり、何となく事情通のふりをして一丁噛みする人が出てきたり……。「騒ぎ」と呼ばれるものの大半は、実はこういう周辺の動揺によるものなのではないだろうか。
 SFコミュニティではこれが起こりやすくて、ダメージが広がりやすい、というのが私の印象だ。共感性が高いという、SFコミュニティの人々の持つ本来よい部分が、ここではマイナスに働いてしまっているように思える。
 この部分、ずっと印象論で語ってきたが、別に問題はない。対処法として、何か衝動的に言いたいときも自分はまずぐっと抑えてみる。少し状況を静観してみる。ここはエンパシーの発揮しどころだぞと自分の胸に言ってみる。そして本当に自分にできることは何だろうと考えてみる。私たちが東日本大震災で学んだことを、もう一度思い出せばよいのである。
 ここに書いたことは、誰でもいえる、ごく当たり前のことなのだが、ときに忘れてしまいがちなことだと思う。
 どうしても動じてしまう自分がいたら、そうですね、まずは草薙龍瞬『反応しない練習』(中経出版)あたりを読んでみることを薦めたい。私自身、以前はこうした本を手に取ることもなかったのだが、実際に読んでみると示唆に富んでいることがわかり、やはりいろいろな本を読むものだと改めて思った。ストレスと向き合うひとつの方法として、こういう考え方や方法もあるのだと知っておくと、自分のなかにも抜け道ができてよい。
 あとは、そうだな、どうしてももやもやしてツイッターで呟きたくなったら、代わりにハッシュタグで遊んでみるのはどうか。
 たとえば、「#好きなSFアニメのシーンをアップすると近い構図の巽孝之の画像が送られてくる」とか。

 この部分は、重い感じにするのは逆効果だろうと思い、あえて軽く書いてみた。だが案外と見過ごされやすいものの、SFコミュニティの抱える問題のうち、世間的にも表面化しやすいという点ではかなり大切なところではないかと思っている。
 そしてこれは、「SF」の精神性と「おたく」の精神性ということを語るにしても、実は避けて通れないところだった。SFコミュニティでは、噂話、ゴシップで動揺が生じやすい、という印象を持たれる方は少なくないと思うのだが、これを実証的に述べることは難しい。それでも、動揺が広がりかけたときどのように対処するのがよいか、ということならすでにさまざまな研究成果があり、私たち自身にも鮮明な体験がある。こうした問題に落とし込めば、現実的かつ具体的な対処方法が見えてくる。何度も「騒ぎ」だといってうんざり・おたおたするよりも、ずっと未来はよくなるはずだ。

 しばらく休憩。最後の部分は、なかなか書くのが難しい。

(ここで休憩。その10に続く)
posted by Hideaki Sena at 21:28| 仕事

日本SFコミュニティについて考えること(その8)

(その7からの続き)

【おたおた】

 いじめがあるというのなら誰がいじめているのか名前を出さないと意味がない、というご意見があるのだが、私は必ずしもそうだとは思わない。
 誰かをつるし上げたりする必要はないのであって、この文章の目的は、未来をつくるために、ひとりひとりができることがあるのではないか、自分もそれに参加できるのだ、という気持ちを持っていただくことである。戦争体験者が「戦争はいけない」と話をすることや、その体験談について私たちが耳を傾けることが大切であるのと同じで、いまは何という名前の上官や同僚からいじめに遭ったと告発することに意味はない。そこにあった事例から、自分の日常生活や身の回りのことと比較しつつ、次の一歩をどう踏み出すか自分自身で考える、ということが大切なのだと私は思っている。
 この考えはさほどねじれたものではないと思うのだが、意外とSFコミュニティ内部では伝わらないという印象がある。このような話をするより前に、そもそも場を混乱させたことのほうの罪が重い、という考え方があるようだ。このため話は平行線になりがちで、根本的な解決がなされないまま全員が疲弊して終わる、ということになってしまいかねない。
 ここから先はさらに進んで、精神性の話になってゆく。個別の例と全体の例をなるべく切り分けながら話を進めるつもりだが、「こういう印象、雰囲気があるのでは」と投げかけることもある。「おたく」の精神性、というものについて、社会道徳や脳倫理の観点から論じたケースはいままであまりなかったのではないかと思う。あまり先行例のない議論なので、書く方も非常に難しい。
 この文章における私の目標は、50周年記念プロジェクトと同じ、「未来を想像し、未来を創る」だ。イベントや書籍出版も大事だし、みんなで集まってわいわいと愉しむのも大切だが、SF社会をよりよいものにしてゆくのも、未来を創るということではないか。いざこざだとかどろどろだとかいうのではなくて、SFの人たちが率先して自分たちの社会を変えてゆけばいい。
 そのためにはそこにある精神性とはどのようなものであって、どこが困難であってどこに長所があるのかということを、ひとつずつ見てゆくことも必要だと私は思うのだ。
 なるべくときおり、緊張が解れる「抜け」の文章を入れるつもりだ。それがないと疲れてしまって、書く方も読む方も「自分には関係ない」と考えてしまいがちだから。「抜け」はあっても、問題提起と解決案はしっかりしたものでありたい。自分に文章力があることを祈ろう。

 最後の本論に入る前に、やや軽い話題をする。
 私の印象だが、SFコミュニティは緊張に弱い、ということがあるような気がする。後で述べようと思うが、何か議論が難しくなったとき、「騒ぎが起こった」という表現をしたりするが、本当にそんなに騒ぎが起こっているかというとそんなことはなくて、実際はコミュニティ内でおたおたしてしまうことが騒ぎそのものであったりする。ここは私の印象だと、SFコミュニティ最大の弱点であるような気がしていて、私たちみんなで充分に気をつけたいところなのだ。
 なぜこのようになるかと考えると、気質の話になってしまって慎重に書くことが大切なのだが、あえてまず直感的に言わせてもらえば、SFコミュニティの人の多くが共感性の高い人たちだからではないかと思っているのだ。さらに直感的に言うと、一般的な人がシンパシー3、エンパシー3くらいなら、SFコミュニティでよく発言したりする人はシンパシー4、エンパシー2くらいの感じがしている。ここは本当に印象の話だと思ってほしい。厳密にあれこれいえる話ではない。あえてこのような印象の話から始めるのは、それならこういう部分に気をつければいいのではないか、と言う話が納得しやすくなると思うからだ。即効性のある部分だからである。

(その9に続く)
posted by Hideaki Sena at 21:28| 仕事

日本SFコミュニティについて考えること(その7)

(その6からの続き)

 以前のブログ(削除済み)で、私はジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ』(岩波書店)に触れ、グリーンの提唱する「メタ道徳」の実践は、SFコミュニティの建設的な発展にも重要な示唆を与えてくれるのではないか、という見方を提示した。「笑い」で終わるのではなく、「メタ道徳」の実践まで行くことが、そろそろ求められる時代になっているのではないかと思っている。
 グリーンは、私たち人間が小集団の道徳観に縛られた「道徳部族」(モラル・トライブズ)であるといっている。私なりの解釈を加えた上でもう一度要約しよう。もともとヒトは小規模採集狩猟民だったわけで、そうした小集団で物事がうまく運ぶよう道徳観も進化してきた。小集団内の《私》対《私たち》問題なら、共感性という心の働きがその効果をよく発揮する。これはデジカメにたとえるとオートモードのようなもので、わりと自動的に働く脳の機能である。
 ところが価値観の異なる別の部族と向き合うためには、オートモードではなくマニュアルモードで、より理性を働かせなければならない。《私たち》対《彼ら》の問題になるからだが、これが私たちの脳には難しいのだ。
 グリーンは書いていないが、私自身はここに他者の心と同化する共感性(シンパシー)だけでなく、相手の気持ちを忖度する思いやり(エンパシー)の能力も不可欠だと思っている。グリーンはオートモードとマニュアルモードの使い分け、バランスが必要だと説いているが、これは感情と理性のバランスであると同時に、シンパシーとエンパシーのバランスの大切さをいっているのだと私は思っている。
 ネット環境の発達した現代社会では、気の合う仲間と地域を離れて一緒に楽しみを分かち合える利点もあるが、他の道徳部族と接触する機会も多くなる。そのとき、いままでの《私》対《私たち》ではなく、《私たち》対《彼ら》の道徳問題が起ち上がる。お互いの道徳観が違うことを理解した上で、ではどうするかという「メタ道徳」の実践が大切なのだ、というのがグリーンの本を読んで私が感じたことであった。

 このような話をすると、そんなことを言われても知らんよ、自分は自分で勝手にやっているよ、という反応が出てくるかもしれない。私は、それはそれで、ひとつの見識としてありだと思う。
 先日、グリーン『モラル・トライブズ』の巻末解説者である京都大学の阿部修士先生からお話を伺う機会があった。そのなかで、グリーン先生はメタ道徳についてあのように書いていらっしゃるが、ほとんどの人は小集団のなかで生きているのだ、という話になって、なるほどその通りだと思った。実際、私たちは多くの場面で、小集団内の一員としてふるまっているではないか。そのときは《私》対《私たち》の問題が主なのであって、それでよいのだと私は思う。
 SFコミュニティの話に戻すと、本当に《私たち》対《彼ら》の問題に取り組まなければならないのは、たとえば日本SF作家クラブなら会長職、内部と外部の橋渡しをする役目の人なのだ。事務局、広報担当もまたそうだろう。会長職をやった身からすると、ふだんはオートモードでまったくかまわないが、外部と接触するイベントのときはマニュアルモードを少し意識してほしいし、また《私たち》対《彼ら》の問題に取り組まないといけない立場の人がいるのだということは、少し意識のどこかに置いていてほしい。こういう立場になるのは、権力を手に入れたいとか、名誉を授かりたいとか、そういったこととはまったく違うことなのだ。
 SFコミュニティの問題において、全員がメタ道徳をふだんから実践する必要はないが、腰を据えてメタ道徳の実践に取り組んでいる人たちがいることは意識し、そこに何か自分がサポートできる部分はあるだろうか、とひとりひとり考えてゆくことは、とても大切だと私は思う。
《私たち》対《彼ら》の問題に取り組む人にとって、本来仲間であると思っていたはずの周囲からの野次馬的反応は、実はかなり精神にこたえる。ついふらりと弱みを見せてしまうこともあるだろう。いまの会長である藤井太洋さんにもそのような気苦労がきっとあるだろう。前会長の東野司さんにも、私以上の大きな困難がたくさんあったはずだ。そういうときはたぶん、周囲も《私》対《私たち》の環境にいったん戻って、クラブ内部やSFコミュニティ内部で共感的にその人をいたわることもまた大切なのではないかと思う。そしてまた《私たち》対《彼ら》の問題に取り組むのだ。「仲間」「親睦」とは、そのようなときのためにあるのではないか。
 そのことは、決して忘れてはいけないのだ。

 また少し休憩。最後にゴシップの話について述べて終えたい。
「SF」の精神性と「おたく」の精神性、ということについてもう少し踏み込みたい。ここがいちばん難しい。

(ここで休憩。その8に続く)
posted by Hideaki Sena at 14:50| 仕事