2017年05月17日

同じ「道徳観」の仲間と話すならストレスを感じないが、違う「道徳観」の人と話すとストレスなので「先回り服従」を強いられる?

 こういうことではないかと思いました。
 今回私が話をした方々は「おたく」だと自覚・自称なさっているので、もしかしたらこういうケースは一種の典型例なのかも知れないと思い、書いてみます。(決して十把一絡げ論、認知の歪みによる一般化のしすぎをしたいのではありません)
 今回「瀬名とは道徳観・倫理観が違うので話ができない」と、最後にある人からいわれたのは衝撃的でした。それで、ずっとわからなかったことがわかったような気がしました。
 えっ、ではその人はいつも「道徳観・倫理観」が同じ人とツイッターで日常的に話しているのか。その人の身の回りには「道徳観・倫理観」が同じ人がたくさんいるから、だからいつもは楽しく話ができているのか。これは衝撃的でした。それでわかったような気がします。
 この文章は、誰かの気持ちを逆なでしたり、怒らせたりするのが目的ではありません。よい話し合いをするため、よい関係性を築くためのヒント、発想として書いてみます。

 私たち人間は、自分と同じ仲間だと思う人と話すときはストレスが少ない。
 違う価値観、道徳観の相手だと、話すのにストレスがかかる。
 これは人間なら誰でもあたりまえのことです。

 現実の社会で、多くの場合、私たちは自分とは価値観や道徳観が異なる人と話をして、解決策・落としどころを見出そうと努力しています。話し合いというのはそういうものですね。拙作『インフルエンザ21世紀』にも書きました。
 自分と相手はそもそも価値観や道徳観が異なるものだ、というのは、少なくとも私には自明のこと、前提のことです。
 ところが、これがよくわからない人というのが世のなかにいる。

 なぜ「忖度」を「先回り服従」と考えてしまう人と「思いやり」と考える人に分かれるのでしょうか。なぜ「おたく」と自称なさる方の一部は「忖度」が大嫌いなのでしょうか。私からすると、「礼儀」と「服従」の使い分けが混乱しているように思えるのですが、相手にとってはきっと一貫した道徳観があるはずです。それは何でしょうか。

 ツイッターは、アカウントを取っていない人でも読むことができるので、公の場だと私は考えます。
 しかしツイッターは、自分が「これ好き!」「同感!」「共感した」というものをリツイートしたり、ハートマークをつけたりすることができます。「道徳観・倫理観」が同じ人が話題を共有できるシステムが強い。共感、つまりシンパシーを伸ばすシステムになっていますね。
 公共の場でも、そこにできるコミュニティ、サークル、仲間は、閉じた共感として形成されること多い。

 そこに、別の価値観の人が入ってくると、面食らってしまう。
 とくに私のように、世間で有名人だと思われているひと、たとえば今回のように国や府の会議に出ている人は「公人」と見なされることがある。
 自分は「私人」「一般人」「いつもおたく≠ニいわれて差別を受けてきた側の人間」「マイノリティ」「納税者」と考えている人には、私が「個人の範囲でお答えします」といったとしても、権力を振りかざして襲いかかってきたかのように思えてしまう。こちらは圧力を掛けているつもりはないのに、圧力、弾圧だと感じてしまう。
 思い込みのヒエラルキーが、その人にとってストレスを生んでしまう。
 自分と違う立場の人の気持ちを考えるのは、ストレスだから、それは「思いやり」ではなく「先回り服従」に等しい。
 先回り服従は道徳的に許されることではない。そんなものを強要されるいわれはない。
 だから自分と立場の違う人にはどんなきつい言葉を吐いても構わない。それは納税者・私人・マイノリティとして当然の権利、正義である……。

 自分は「私人」「マイノリティ」の側である、けれども自分の主張はマジョリティであり民衆の代表である、という考え方がここにさらに入ると、「正義感」が生じてきます。権力に対抗する民衆の正義、という図式が生じます。
 これは大きなすれ違いの原因になるでしょう。
 とうぜん、話は噛み合わなくなります。「道徳観・倫理観が違う人とは話ができない」となるでしょう。
 ですがこちらからすると、それは社会の断絶です。
 私だって納税者、民衆の一人なのですけれどね。
 私はいつも一人の人間として発言してきました。作家とはそういうものです。それが一部の人にとってカンに障る、ということの正体かも知れませんね。
 瀬名は公人だと思って嘲笑してきた、だがどうもこちらが思っていたポジションと違う、自分が最初に考えた信念と違う、だから戸惑う、怒りが生じる……。これが私の体験してきた20年かも知れないと、思うことがあります。

 SFを書く人とSFを読む人が一定数いる、というだけで各々の意見はバラバラ
 という主張がありました。
 もちろんその通りです。
 ですが一方では、一部の濃い同好会、ファン活動、業界内集団、(私がかつてSFコミュニティという名前で定義したもの)、ひょっとするとそうしたものは、「道徳観・倫理観が違う人とは話ができない」とときにいってしまうほど、実際は「道徳観・倫理観が同じ(という錯覚を起こす)仲間たち」なのかもしれません。その点ではバラバラではなく、似ているのではないでしょうか。

 道徳観・倫理観が異なるもの同士がいかに有意義に話をするか、については、以前に『モラル・トライブズ』を例にして書きました。私たちは道徳部族ですが、それでも互いに話し合えることはあるのだろうと思います。

 何がその人にとってストレスであるのか。
 これが「おたく」を自称なさる方々と、そうでない人の、一番のディスコミュニケーションなのかも知れないと、思っています。
 SFは「おたく」の人だけが読むのではありません。
 たとえば日本SF大会に行くと、家に帰ってきたような安心感、ほっとする感じがある、という人は多いと思います。ところが私にとって日本SF大会はすべてが緊張の連続。常に張り詰めた気持ちで、しかし顔は笑顔をつくっていなければなりません。マジョリティとマイノリティの立場が逆転する社会だからです。特定のツイッターアカウントなども同じですね。
 どちらも歩み寄って両者のストレスを少なくするのがよいのだと私は思いますが、それは難しいことですね。断絶するのか、話し合いの努力を続けるのか、それもまた道徳観の違いなのでしょう。


 気分転換をする。情報を遮断する(物理的に離れる)。もちろん、こうした方策も療法として大切です。
 しかしそうすると、(これは私の過去の体験ですが)どんなに丁寧に説明したつもりでも、「放り出して逃げるのか」「人の意見に聞く耳を持たない愚か者だ」「和を乱す不届き者だ、制裁しなくては」といった非難が一斉に投げかけられるかもしれません。たくさんおかしな噂話がなされる可能性もあります。
 それらも道徳観の違いでしょう。何をストレスと感じるか。そこに起因する違いでしょう。
 少なくとも私自身はそうした言葉をいわないようにしたい。
 ストレスを感じているのは一方だけではなく、両者が、そしてそれを傍観している誰もが傷むのだと思います。

瀬名秀明
posted by Hideaki Sena at 16:17| 仕事

2017年04月27日

問題点を取り出して特徴を示すことと、「これだからおたくは(SFファンは)」と十把一絡げに言うことは違う

 須藤玲司氏と中津宗一郎氏による瀬名の非難がツイッター状でやりとりされてから少し経って、今度は唐突に、評論家の日下三蔵氏が私・瀬名の名前をツイッターで取り上げるということがありました。他者様への苦言に続けて、ご自身がSF界においてむしろマイノリティの存在であるといった旨をお書きになった後、唐突に私の名前が出されました。以下のようにです。

ともかく本人の帰属意識と傍から見えるポジションが必ずしも一致するとは限らないし、SF業界とかSF界のようなくくり方は本質を見誤る元であろうと思っています。SFを書く人とSFを読む人が一定数いる、というだけで各々の意見はバラバラなのに、あたかもSF界なる集団があると錯覚してしまう。

例えば日本SF作家クラブは一つの団体ですが、別に日本SFとイコールではないし、作家クラブに入っていないSF作家もたくさんいるわけです。「これだからSF界は☓☓だ」みたいなくくり方は雑過ぎるでしょう。これ、瀬名秀明さんにも何度も言ったのですが、結局、理解してもらえず残念でした。

 私は日下氏に抗議し、「これだからSF界は☓☓だ」などと「雑」な「くくり方」などしたことはないので、もしそのようなことがあったなら文例を示してほしい、雑な括り方をなさっているのは日下さんの方ではないのですか、どうかツイッターという公開の場では慎重なご発言をお願いします、と伝えました。
 日下氏は私のブログを例に挙げました。そこで私は、このブログでは「SFコミュニティ」という言葉に対して自分ではこのように使いますという定義を試みており、また適宜「一部は」などの言葉を挟んで慎重に書いているはずだ、決して「雑」な「くくり方」ではないと伝えました。
 プロ評論家が公の場で、無関係な文脈であたかも瀬名のことを愚か者の代表であるかのように例として挙げていることは、それこそが雑な括り方ではないのですか、と申し上げました。
 日下さんはその後、ご自身のツイッターで

SF界、SF業界というくくり方は必ずしも実態を的確に示しているとは限らず、ほとんどの場合において一部の事例を全体に拡げているに過ぎない、という私の持論に変わりはないが、瀬名秀明さんはブログで「SFコミュニティ」の定義や実態について詳細に考察しており、「雑なくくり方」の文脈で瀬名さんのお名前を出したのは不適当でした。よってその部分を取り下げ、瀬名さんにお詫びいたします。

 と書いてくださいました。

 日下さんのおっしゃる「本質を見誤る元」の本質とは何であるのかとうかがったところ、日下さんからは

SFを書く人とSFを読む人が一定数いる、というだけで各々の意見はバラバラ
という当たり前のことです。ほぼ同じ文章を『夜の虹彩』の解説にも書いた記憶があります。

 とのことでした。
 まさか私がそんなことさえわかっていない人間だといままで思われていたのだろうか、と愕然とした思いです。
 このことについて、私は20年来悩まされ続けてきたので、あらためてここで書きます。


 私の文章や訴えを読んで、
「瀬名はおたくやSF業界を十把一絡げに批判している」
 と反発なさる方が一部にいらっしゃいます。これは何度説明を差し上げても、どうしてもご理解いただけないことのようで、この簡単なことがなぜご理解いただけないのか私にはどうしてもわからず、つねに私の精神を圧迫する元となっています。

・問題点を取り出して特徴を示すことと、「これだからおたくは(SFファンは)」と十把一絡げに言うことは違う

 なぜ「おたく」や「SFファン」を自称される方の一部【注意・全員とは申しておりません!】が、いつもいつも、決まってこのように、「他の人と同じに扱うな」「SF村の一員と十把一絡げにするな」と憤慨して主張なさってくるのか、また私に対してときに攻撃的な態度をお取りになるのか、私は非常に、とても非常に、20年来不思議に感じています。いったいなぜなのでしょうか。
 そしてこちらが説明しても、よくわからないといった態度をして、自分の主張を引き下げることをなかなかせず、かえって意固地な対応を取られる方が多いのです。
 逆にいえば、このようにお考えになり、行動なさるという点で、これらの方々はとてもよく似ていると私は感じています。どうしてもそう感じざるを得ないほどよく似ていると思います。
 SFファンだから、特撮ファンだから、おたくだから、ミステリファンだから、といった枠組みとは違う、別のレイヤーがあるように感じられます。

 これは私が長年観察して考えてきた仮説です。

 もしかすると「おたく」を自称なさる方は宮崎勤事件の傷が深く心にあって、「自分を宮崎勤と一緒にするな」という過剰な防衛反応が心に働いているのかもしれません。
 だから「あなたにはこのような傾向があるから、人と接する際にどうか気をつけていただけませんか。少なくとも私はとても嫌な思いをしました」といわれたときに、「おたくをひとくくりにするな。宮崎勤と一緒にするな」と感情が先走ってしまうのではないか。私はそのように考えています。
 この私の考えは間違っていますでしょうか。もしそうなら知見を刷新し、知見を深めたいので、ぜひご教示をいただければ幸いです。
「おたく」や「SFファン」を自称される方の一部は、この過剰な先回り防衛によって、ときに他者に対して精神にダメージを与えるほどの攻撃性を発揮してしまう、ということはないでしょうか。

 関連してもうひとつ。
 これらの方々はこれまで何度も、雑な括り方で批判を受けてきた体験があるのでしょう。
 だから決して雑ではない議論を相手が試みようとしたときも、相手はきっと雑な意見の持ち主だろうと反射的に考えて、相手をその枠に括ってしまいがちなのではありませんか。
 そしていったん相手をそうだと思い込んでしまうと、今度はなかなか自分の信念を訂正できないのではありませんか。
 かつて世界では、「女はこういうものだ」「黒人・ユダヤ人とはこういうものだ」などといって、差別がおこなわれてきた重い歴史的事実があります。それと似たかたちで「おたく・SF村とはこういうものだ」などと言う人は、残念ながらいまの時代にもいるでしょう。
 では、だからといって、相手に対しても同じことをしてよいでしょうか。そうではないと思います。
 大切なことが指摘されているときでも、聞く耳を持たなくなってしまう、ということはないでしょうか。


 このように書くと、「ほら、やはりひとくくりにして批判しているではないか」などといわれるかもしれません。
 そのようなとき、私はどうしても昔の「ああいえば上祐」という言葉を思い出してしまいます。何か社会に対するパースペクティヴがねじれてしまうようで、非常に精神に負担が掛かり、吐きそうになります。
 問題点を括り出して提示することは理解や解決へ向けた「般化」につながりますが、それは「十把一絡げの暴論」とは違います。「科学の見方」と「ステレオタイプな決めつけ」が違う、ということと同じです。
 問題を整理し、当事者にわかりやすい気づきを得ていただくために、「このような場合がまま見られるので注意してください」とまとめることは、「人間ひとりひとりは個性的な存在である」という基本的人権の主張となんら矛盾しません。

SFを書く人とSFを読む人が一定数いる、というだけで各々の意見はバラバラ

 というご意見は、ある面から見ればはまったくその通りですが、別の面から見れば実情を反映していないご意見だと私は感じます。その後者の部分があるからこそ、私たちはこの世界で生きることに困難を感じ、日々解決策を求めて格闘しているのではないでしょうか。
 人間一人一人が個性を持ち、皆違うのは、当たり前のことです。
 ですが、「各自の意見はバラバラだ」と主張しただけでは、物事は解決できない時代なのだと思います。
 おたく・SFのことも例外ではないと私は思います。


 こうした私の訴えは20年来ずっと変わらないはずですが、いまなお
こちらのことを「SF村の一員だろう」と一括りにして瀬名は思っている
 とお考えの人には、どうしても伝わらないようです。なぜこの簡単なことが伝わらないのか私にはどうしてもわかりません。
 残念ながら、私・瀬名のことがカンに障る、という方はいらっしゃるのでしょう。それは仕方のないことだと思います。
 ですが、なぜ上述のような方々が、揃いも揃って同じように、このようにお考えなのかもわかりません。この一点において、そうした方々は同じ行動を取っている、つまりグループとして抽出できるほどの特徴的な集団である、と判断されても仕方がないと思います。何か特徴的な精神の回路があるのかとさえ、心が弱いときにはつい思ってしまいそうになることもあります。
 まさにそこが私にとっては大きな負担なので、どうかご自身でお気づきになって、変えていただきたい、と願っていることです。

「いやなら見なければいい」
 とおっしゃる方がいます。
 一部のことについては、これは妥当なご意見でしょう。書かれる場所によっても違います。私もほとんどの場合は、目に入っても無視します。
 ただ、他者を非難する文脈で、これは当て嵌まらない場合があると私は思っています。
 とくにそれは、勝手な思い込みで相手を枠組みに填めて、自分の思い込みと違うからと言って非難なさるような場合です。勝手な思い込みによって、相手をあたかも愚か者の代表者であるかのように蔑むような場合です。私自身の社会的信頼を大きく傷つけています。
 言いっ放しで何を言ってもいいのか? そうではないです。
 相手は公人(作家)、自分は私人ないしマイノリティ(と自分では思っている)。だから何を言ってもいいのか? ときと場合に拠りますが、場合によってはそうではない、というのが私の道徳観ですし、これは決して特殊な道徳観でもないと思います。
 人間一人と、人間一人が向き合う問題である、と思います。
 この私のブログは、もしかすると一部の方には思い当たる節のある内容になっているかもしれません。
 では「いやなら見なければいい」のでしょうか。人間にはそれを乗り越えて自分を変えてゆく勇気があると私は思います。


 このようにお考えください。
 まず「おたく」や「SFファン」という枠組みがあるのではありません。
 私がこれまで仮に「おたくの精神性」の弱さ、甘え≠ニ記してきた、人間誰しもがうっかりすると表に出してしまう弱さ、甘え、それを他者への攻撃として表現してしまいやすい人がいる。
 そうした人たちが「おたく」や「SFファン」というベン図の中に入っていることがある。
 そのために、そうした人たちのおこないが、つい他の人をして「これだからおたくは」「これだからSFファンは」といわせてしまう結果になっている。
 ということです。
 重要なのは、甘え≠フ部分です。
 私がお願いしたいのは、「おたく」や「SFファン」はこれこれのことを改めてほしい≠ニいうことではありません。
 あなた個人のその行為が、私を強く傷つけています。私の社会的信頼さえ傷つけている可能性が高いです。しかもあなたの思い込みそのものが間違っていると私は感じています。私は苦痛なので、どうかやめてください。またできればこれを教訓として、どうか同じことを今度他の人にもおこなうようなことはなさらないでください。
 ということです。
 これは雑な括り方によるお願いでしょうか? そうではないと思います。

「おたくは理不尽な迫害を受けている」「いわれもないことで非難を受けたり嫌われたりている」
 とお考えの方がいるかもしれません。
 ですが、もし「おたく」や「SFファン」が嫌われているとしても、それはアニメやまんがを見ているからではありません。
 その人個人が、他者に対して迷惑を掛けているからです。だから、その人個人が嫌われるのでしょう。
 そして、その人個人が「おたく」や「SFファン」を自称していることによって、コミュニティは迷惑を被っているのです。
 もしこれが何かの疾患によるもので、ご自身ではどうしようもないものなのだとしたら、それは仕方のないことでしょう。ですがこれはご自身でコントロールできないことなのでしょうか。そうではない場合がほとんどだと思います。多くはご自身の意志で、改善できるはずのものだと私は考えます。
 それに対して「お願いですから慎重に行動なさってください」と相手にお伝えすることは、大切なことだと私は思います。

 なぜ私がこのようなことを20年も述べているかというと、同じ悲劇が今後も繰り返される可能性があり(実際に繰り返されていると私には思われ)、そうした悲しいことが今後起こってほしくないからです。
 私は「おたく」全般を非難しているのではありません。「SFファン」をだめだといっているのもでありません。「SF村」がどうのといっているのでもありません。
 もし私が何かを申し上げるなら、それはおたくやSFそのものではなく、あなた個人≠フ振る舞いについて申し上げているのです。
 残念ながらこれまでの私の経験では、こうしたお話を差し上げても、
・ご自身の勘違いを取り下げることはなく、また謝ることもない。いったんこうと表明してしまった信念を修正することができない。
 という方が非常に高い頻度でいらっしゃいました。おかしなプライドが邪魔をしているのではないかと感じることが多々ありました。
 あなたはそうした方々と同じでしょうか。
 私はそのことをおひとりおひとりに問いかけたいと思います。


 この根本的なところが相互理解できない限り、同じことがいつまでも繰り返されると私は思っています。
 何度も、何度も、何百回もこのことを指摘し、相手にご理解をいただく試みを繰り返すのは、本当に大変なことなのです。
 いつまでも過去に引き戻されるような感覚があり、仕事にも大きく差し支え、健全な生活へと回復するのに障壁となります。いまなお激しい疲労と苦痛に悩まされることがございます。この文章を書くだけでも大変な努力が必要です。


 なお角川春樹事務所の中津宗一郎様は、その後私がメールを差し上げ、1ヵ月経っても精神的に苦しめられることがあるのだとお伝えしたところ、
「瀬名さんが委員としてどのような役割を果たしていたかについて、十分に知ることもなくあのような非難を書いてしまい、その結果、瀬名さんを精神的に追い詰めてしまうという結果をもたらすまでになるとは想わなかった浅はかさは、文芸編集者としてのみならず、一人の大人として書く前に熟慮するべきでした。」
 と、ご丁寧なお詫びのメールを頂戴しました。それはお心の籠もったものであり、充分にお詫びのお気持ちが伝わってくるものでしたので、私はもう中津様に対しては気持ちを引きずることはないようにしたいと思っています。

 日下三蔵様は「雑な括り方」の例として私・瀬名を取り上げたことについて撤回なさいましたので、その点に関しては私は納得しております。

 この文章をお読みになる方は少ないかもしれません。ですが、ここに書いたことは、とても大切なことだと思います。
 どうかご理解をいただければ幸いです。どうぞよろしくお願い申し上げます。

瀬名秀明


追記
 世のなかには「先回り服従」と「思いやり」の区別・使い分けが理解できない人がいる、というのは、私にとってはけっこう衝撃的でした。ここや先のエントリーで書いたことの意味をうまく汲み取っていただけない場合があるのですね。「自分と立場の違う人の気持ちを考えて言動に気をつけることは先回り服従である」という道徳観があるのですね……。時と場合によると思いますし、服従と礼儀は違うと思いますが、そうした考え方もなく一律なのでしょうか。先回り服従というのは圧力がかかっている場合に生じるものなのでは?
 むかし「言葉に気をつけていただけませんか」とある人にいったら、「それは表現の自由を脅かすものだ」といった旨のご返答をいただいてびっくりしたことがあります。そのとき、それを横で見ていたある人は、後に「あれは単にしつけの問題だよね」とおっしゃったそうです(伝聞情報)。当時のことを思い出しました。
posted by Hideaki Sena at 17:14| 仕事

2017年03月18日

2025年国際博覧会検討会のこと

 須藤玲司さんがツイッターで2025年国際博覧会検討会と私のことを書いてくださっていると知ったので、わかる範囲でお答えします。
 すみません、twitterはやっていなくて、ブログで須藤さんのご発言を全文引用するのはひょっとするとルール違反かもしれないので、ここでは引用文を示しません。ご容赦ください。
 長い文章なので1分で読めるように短くまとめろなどのご意見はあると思いますが、長い文章でないと書けないことがございます。ご容赦ください。


 なぜ2025年国際博覧会検討会の委員に入っているかですが、正直なところ、私自身もお声かけをいただいた経緯は知りません。他の委員からご推薦があったとうかがいました。たぶん私が以前にパリ万博を舞台にした『八月の博物館』を書いていたこと、作家であって未来への想像力は大切だよという話をふだんからしていることなどを憶えていてくださったのだと思っています。どこか特定のコミュニティに所属しているわけではないので、完全にフリーな立場で発言させていただいていると思っています。
 検討会には3回とも出席しました。委員の人数が多いので、1回あたりの発言時間はひとり2分くらい。ここに議事録がありますね。
http://www.meti.go.jp/committee/kenkyukai/mono_info_service.html

 1回目の検討会で1度発言して、2回目は挙手したけれどたぶん時間切れで発言の機会がなかった。3回目に1度発言しました。1回出席すると、手当は約1万円です(別途交通費・宿泊費支給)。省庁で取り決められている金額でしょう。私は仙台に住んでいるので、東京や大阪開催だと時間帯によっては到着できない。宿泊すれば2日がかりの仕事となります。
 各検討会の前に、当日の資料(案)がメールで送られてきます。経産省のページに載るのは、この(案)なんです。いろいろいわれている第3回の資料も、当日配布された(案)。つまり当日の委員の議論を反映して修正したものではなくて、あくまでも事前に経産省が用意した資料なんです。これは仕方がないことだと思っていて、役所の会議の流れではよくあることかなと思っています。
 もちろん、多くの人に見せるなら、議論を踏まえた上でちゃんと書き直したものにした方がよいと個人的には思っています。国内の人だけでなく海外の人も見るのですから、少しでも「おおっ」とみんながわくわくしてくださるもの、アイデアが練られたもの、精度の高い文章のものである方がよいと思いますね。

 第2回検討会開催前に、
「【資料3】の万博開催意義、基本理念、テーマ、事業展開についての意見を、事前に文書で送ってほしい。ひとつあたり400字以内で書いてほしい」
 というご依頼がありました。それで半日考えて、それなりの分量を書いて事前に送りました。第2回の事前資料には4つのテーマ案が記されていて(第2回【資料3】p.9)、「未来への想像力」に着目した今回のテーマ案は以前より前進していると思ったので、基本的にはこの方向性に賛同するかたちで文章を書きました。
 それらの文章は第2回の【資料5】に載っています。先方が取捨選択なさいました。これらは検討会の場で実際に発言したわけではなくて、事前に文章として提出したものなんです。
 同じように、第3回検討会の前に、
「2025年やそれ以降の関西、日本、世界の在り方について、委員の考え(案)をお示しいただきたい」
 というご要望があったので(第2回【資料3】p.18)、ひとつだけ書いて送りました。これは万博そのものとは無関係のヴィジョンでよいとのことだったので、そのようなつもりで書きました(第3回【参考1】)。第3回検討会では、この参考資料について言及はなかったです。

 検討会開催の前に、資料内容について各委員へ経産省から事前に説明の時間が設けられます。私は仙台に住んでいるので、充分な時間を取って東京まで出向いて事前に打ち合わせすることができません。ですからたいていは検討会の直前に室長にお目にかかって、30分から1時間ほどの間で先方からのご説明を頂戴しつつ、自分の意見を述べました。 
 ここでは「この記述はどうなのか」「ここはいいと思うが、これは違うと思う」「もっとこうしたらどうか」という発言はしましたが、相手は室長おひとりなので、どこまで伝わったかは心許ないです。

 当初「健康と長寿」だったテーマが、なぜ別のものになったのか。
 これは第1回検討会のまさに当日、アメリカのミネアポリスが2022/23年の認定博覧会に名乗りを上げ、そのテーマが「「Wellness and Well Being for All: Healthy People, Healthy Planet(すべてを健康で幸福に:人の健康、地球の健康)」だとわかったので、重複を避けたい意向があったからだと聞いています。もともと2025年大阪万博は「Well Being」を掲げたかったのですが、テーマがかぶってしまった。だから新しいテーマが必要だったということだと思います。このことは報道されていませんね。
 訴求力のあるテーマが何よりも大事だと私は思うので、「検討会のように大勢が集まる場ではなくて、本当に万博をわかっている人やクリエイターが数人でもいいから集まって合宿形式で集中的にブレインストーミングをやったらどうか。その方がいいテーマ案が出るのでは」と室長には話していました。たぶん実現しなかったのでは。実際には事務局側が、さまざまな意見を集約するかたちでテーマの文言を考えたと聞いています。

 第2回検討会で関西の学生さんたちが主体の「inochi学生プロジェクト」代表者がいらっしゃって、短いプレゼンをなさいました。検討会と「inochi学生プロジェクト」のつながりはわかりませんが、もともと関西で錚々たる研究者の方々、関西の経済団体の支援のもとで進められてきた活動だろうと思います。彼らは昨年12月に「2025年大阪万博誘致 若者100の提言書」をまとめて、それを大阪知事に渡しています。当時は各新聞もこの活動を好意的に紹介していたようです。大阪府庁職員ブログも好意的に紹介していますね。
http://inochi-gakusei.com/forum/
http://www.inochi-gakusei.com
http://www.pref.osaka.lg.jp/kikaku/kokusaihakurankai/
http://blogs.yahoo.co.jp/osakapref_blog/18923438.html
https://www.facebook.com/worldexpoosaka 2017/12/27付で「当日は5つの提言について、それぞれプレゼンいただきましたが、どれも素晴らしく、会場は大盛り上がり!!」とあり、ただ提言書を知事に手渡したのではなく、再生医療の著名専門家などもいる前で内容をプレゼンしていたことがわかります。

 今回の検討会でも、最初から「若者の意見を取り入れよう」という意見が委員から出ていて、その流れで「inochi学生プロジェクト」の提言書を積極的に取り入れようという動きがあったのではないかなあと思っています。
 最近になって「2025年大阪万博誘致 若者100の提言書」の公開が休止されたことを知って、ちょっと驚きました。議論を喚起することが目的なのだったらそのまま載せておけばよかったのに、と個人的には思います。でも、こちらからはまだダウンロードできるようです。
http://www.meti.go.jp/committee/kenkyukai/shoryu/hakurankai/002_haifu.html
(申し訳ない、ここにあるのは検討会時に配布されたプレゼン資料だけでした。ということは「2025年大阪万博誘致 若者100の提言書」自体はもう見られないのか……)

 これをご覧になっておわかりのように、第3回検討会資料(案)の【資料3】【資料4】に載っている「2025年国際博覧会の展開事例集」は、多くが「2025年大阪万博誘致 若者100の提言書」をそのまま掲載したものなのです。須藤さんのおっしゃる「素人のおじいちゃん」が考えたアイデアではなくて、いま現在の若者が、自主的に考えた未来像なのだと私は認識しています。


 少なくとも【資料4】(案)p.46以降は、あれをまともに実現しようと思って掲載しているのではないのだと思いますよ。「若者の提言も聞いています」という資料ですよね。
 どうして【資料4】(案)p.46で若者の意見をだらだらと載せてしまったのかはわかりません。どこかに「これは現代の若手が考えた、いまの未来像の一部です」と断り書きを入れておけばよかったのに、と思います。
 でもその断り書きがなくて、あたかも検討会の参加者がブレインストーミングして自信満々に出したアイデアが書かれていると誤解されてしまった。そこはもっとちゃんとした書き方があったはずで、残念だなと思います。「こういう掲載の仕方はどうなんだろう」と私も心のなかでは思っていたのだから、検討会の場で一言いえばよかったと反省します。

 ただ「2025年大阪万博誘致 若者100の提言書」に載っていないアイデアもありますね。申し訳ありません、検討会のときは気づきませんでした。下掲の記事に「事例集は、若手会社員や学生からの意見を紹介しているもので、事務局で取りまとめました」とあるので、どこかの「若手会社員」からアイデアを掬い上げる場があったのかもしれません。これについては説明がなかったのでわからないです。
http://www.j-cast.com/2017/03/17293423.html?p=all

 私は、そのアイデアがよいかどうかを「若者」「女性」「お爺ちゃん」とくくって話すのは好きではありません。サイエンスコミュニケーションの世界では、若者の自由闊達なアイデアを大事に育てようという風潮があるので、若者のアイデアはちょっとヘンでも温かく見守ってあげたい、という気持ちになりがちです。でもそれが「ちょっとヘンでも大目に見よう」では過保護になるし、「若者の意見を積極的に登用するのは望ましい」という気持ちが勝りすぎてアイデアをよく吟味もせずに持ち上げすぎてしまうのでは危険だと思っています。サイエンスコミュニケーションの世界では、そういう罠に陥ってしまうことがときにあるように思います。

 関西の学生さんたちがアイデアを提出なさること自体は素晴らしいと思いますし、そうした活動を否定するものではありません。
 が、そこから出てくるアイデアは、若者の思いつきにすぎないということもまた、充分に理解しておく必要があると私は思ってます。アイデアというのは、いいものもあればそうでないのもある。それだけのことだと思います。
 学生さんたちのアイデアをそのまま万博の目玉企画であるかのように世間へ向けてアピールするのは、やはり危険です。
 招致に関してもこれは致命的ではないでしょうか。何より現役の日本人科学者・技術者からばかにされるでしょう。
 万博招致のイメージダウンに繋がると、私は以前から思っていました。

「2025年大阪万博誘致 若者100の提言書」は、すでに昨年12月にはできていました。ウェブで公開もされていました。学生さんは著名研究者らの前で内容のプレゼンもしていました。関西の専門家・研究者も目を通したのだろうと思います。それでも「一部の提言はセンスがないんじゃないか」という意見はいままで出なかったのだろうと思います。
 しかも「inochi学生プロジェクト」の学生さんたちは、かなりがっつりと専門家の講演も聴き、ワークショップもやって、私が見るとかなり恵まれた環境のもとで、未来を考える作業をやっている。それでも「2025年大阪万博誘致 若者100の提言書」の内容は、ちょっとヘンだったのです。
 私はこの事実の方が難しい問題だなと感じています。サイエンスコミュニケーションの本質が問われる問題だと思います。


「万博婚」と優生思想?についてですが、私個人の考えを述べます。
 第3回検討会では主に【資料3】(案)が検討されました。そこには

 C⽇常にはない出会いが⽣まれる
 例:遺伝⼦データを活⽤したマッチングなど、新しい出会いを応援する

 とあります。
 私はこれについて直接的には発言しませんでした。
 むろん、この例がよいとはまったく思いません。
 ですが私はこの文章だけなら、すぐさま優生思想と結びつくとは感じられなかったです。瞬時に優生思想の危険性に思い至らないようではダメだ、とのご意見も一部にあるようですが、うーん、これは私のサイエンスリテラシーが低いということはないと思いますね、この文章そのものがすぐさま優生思想を示すとはちょっと感じられないです。それがダメな態度だとはちょっと思わないです。
 須藤さんは「遺伝子マッチングによる優生交配とか提案した大阪万博検討会」とツイッターでお書きですが、少なくとも「優生交配」とはいっていない。マッチングも、何をマッチングするかは書いていないです。ちょっと気を回しすぎな読み替え批判のように思いますが、いかがですか。
 もちろん世界には多様な人がいるので、そうした背景や歴史の経緯を考えれば文言の練り方の精度が低い。これはやはり、日本国内にいる人の発想になってしまっていますよね。その点がとてもマイナスです。
「どうせならもっと文章を練ってほしい、あるいは数ある若者意見のなかからわざわざこれを報告書案に書かないでほしい」というお考えなら、まったく賛成です。じっさい、資料を見たときにはそのように思いましたから。
 ただ先にも書いたように、最初から資料(案)はできていたのです。

 そもそもこんなアイデアはきわめて実現性が低いので、「どうしてもこれを削除しろ」という議論の対象にならなかったのだ、と私自身は考えていました(私個人の印象です)。少なくとも私でさえ、できないことはわかりきっていたから。つまり誰だって「これはどうなのだ」といえる。

 この例そのものはよくないですが、これを土台に専門家の人たちが集まって、もっと面白くて実現できそうなことを考える、というなら、それはあってよいと思います。
 そうですね、たとえば私たち人間は、たぶん無意識のうちに何か相手の「匂い」のようなもので直感的に好き嫌いを判断しているかもしれない。そうした匂いや皮膚の感触の相性も、たぶん2025年にはある程度解析が進んでいるだろう。指先をスマホか何かのセンサに当てて、自分の「匂い」や皮膚の触感の特徴がわかるような技術もできるのではないか。いまでも類似の研究はある。もしそれをもとに恋人同士で万博に行って、自分のスマホをお互いにつき合わせて遊べたら? これならちょっと面白いのでは。これでも危険な優生思想になるでしょうか? 2025年の未来なら、これはありかもしれない。たとえそこであなたたちは相性不良だと判断されても、それを乗り越えて一緒になるだけの意思決定力は人間にはありますね。
 これはいまこの文章を書きながら思いついた一例に過ぎません。
 どうせならそんなふうに想像力を羽ばたかせたい、と思っていました。
(ここで違和感や不安をお感じになる方も多いと思うので、つけ加えます。上で述べているように、ここでは、もしも【資料3】(案)をもとにアイデア出しをしろといわれたら自分ならどうするだろうか、という一例として出しています。
 後で知りましたが、毎日放送の13日の報道[Yahoo!ニュースにも配信]は本当にどうかと思うもので、「パビリオン案「万博婚」」と書いてあった! いまこの記事はもう見られません。こんなふうに書いてあったら、みんな驚いてものすごい反発が起きるのは明らかです。
 私はどうしても万博会場でマッチングに関するイベントや展示をやれと主張しているのではありません。遺伝子データをもとにした結婚企画を会場でやるか、やらないか、と二択で訊かれたら、それはもちろんやるなと答えます。現実的にはできるはずもないと思います。現実にやるというなら、それは暴走に近いのだから、多くの方といっしょで、何としても阻止しますよ。もし企画書にそうはっきりと書いてあったら、それはもちろん反対意見を表明します。
 それは前提の上で、上のように、スマホに指を当てるという遺伝子そのものをみるのではない遊びだったら、まだちょっとは面白いのではないか、といっています。実際に会場でこれをやれという提案ではなくて、アイデア出しの段階ならこういう方がまだ筋がいいのでは、ということです。ご意見はあろうかと思いますが、このように書くこと自体はとくにサイエンスリテラシーが低いとは思わないです)

 続いて【資料4】(案)ですが、こちらはほとんど検討会では見ていませんでした。問題があるのは〈事業展開面〉という本文中に若者の(展開例)がよく吟味もされずそのまま引用掲載されていることでしょう。ただこちらは申し訳ありません、当日はほとんど注意を向ける時間がありませんでした。
 末尾にたくさんの若者のアイデアが載っています。こちらも申し訳ありません、ほとんど精読する機会はありませんでした。事前に精読して検討会の場でひとつひとつに異を唱える必要があると思わなかったです(後述するように、展開例として資料本文中にピックアップされていたものの中で、ロボット・AI分野でどうしておかしいと思うものは主張しました)。本当に実現したいのかどうかもわからないこのアイデア集の中で、とりわけ優生思想に少しでも関わりそうな案件だけを資料から取り除くよう強く経産省に求める行動がはたしてできただろうか、と考えると、それはたぶんできなかっただろう、思い至ることもできなかったと思います。申し訳ありません。

 【資料4】(案)p.46「2025年国際博覧会の展開事例集」の「万博婚」。
 数千万人が来場する万博で、遺伝子データを活用したマッチングなど、新しい出会いを応援する。また、万博会場で、結婚式をあげることも可能とし、幸せを来場者にお裾分けする。

 とあります。途中に「また」という接続詞が入っている。冷静に読めば、2つの文章は並列的ですよね。べつに過剰に擁護するつもりはありませんが、文章中で「出会い」と「結婚式」は区別されている。と、私は当日見ていました。「万博婚」というひとつの項目内なのだから遺伝子マッチングして出会って結婚まで一続きだ、危険だ、といわれれば、うーん、どうでしょう。この提言者が実際はどのようなお考えだったのかわからないし、これだけだとなんともいえないです。
 繰り返しますが、須藤さんのおっしゃる「遺伝子マッチングによる優生交配とか」は、ちょっと読み替えが入っているように思いますが、いかがですか。
 もちろん、「紛らわしい書き方をするな。もっとちゃんと未来像を描こうよ」というご意見ならまったく賛成です。それに数あるアイデアの中から、わざわざこれを面白いと思ってピックアップしたセンスは、正直なところよくないと思います。後で述べます。


 これまでの検討会や事前の説明打ち合わせの場で私が再三にわたっていってきたのは、「資料に書かれている未来像がちゃんと練られていないように思える、これではとても多くの人に見せられるものではないのでは? もっとみんなが賛同してくれる・面白がってくれるような未来ヴィジョンを思いっきり描いたらどうか」ということでした。
 もちろん経済効果や、本当に安全にできるのか、といった観点の議論は大切なんですが、招致のためには日本ならではのちゃんとした未来ヴィジョンを提示することが何よりも重要なのでは? と思っていました。
 ただ、実際の招致活動では、そうしたことよりもまずは経済的側面の検討の方が大きくて、未来ヴィジョンの作成はどうしても後回しになってしまうようです。そこは私個人が残念に思っているところです。

 私が第3回検討会や、それまでの説明打ち合わせの場で発言したのは、おおむね次のようなことです。そのままではなくて、言葉足らずだったところは少し説明を加えてあります。
 第3回検討会【資料3】(案)p.8以降。「常識を越えた万博」というスローガンはいいと思う。だが、そこに書かれている文章自体が、いまの常識=i妙な固定観念)にとらわれているのではないか。
 いまあちこちでいわれているような、新味のない未来像に留まってしまっている。「おっ、こんな未来像なら見てみたい」と思えるようなものではないし、一部はいまでもできそうなものをそのまま書いてしまっている。
 たとえば、
 B「メイン会場」の空間制約を越える
 で「仮想現実等を活⽤しながら」とあるが、どうせなら会場に実際にいらっしゃったかたとはまったく違う視点で楽しんでいただけるよう、VRでは空からアプローチできるようなものはどうだろう。VRなんだから空にパビリオンがあってもいい。実際の来場者とは違った景色が見えたら面白いのでは。(夢洲は人工島で平地だから、歩いていると景色も変化しないし、きっと疲れてしまうだろう。そこに描くヴィジョンもうっかりすると2次元的になってしまいそうだから、もっと3次元的に考えたい)
 A疲れない・元気になる
 に「ロボットが来場者に空いているパビリオンを紹介したり、パビリオンごとに事前観覧予約を受け付けることで「待たない博覧会」を実現」
 とあるが、パビリオンの紹介なんて2025年でもロボットよりボランティアスタッフの方がたぶん臨機応変にうまくできるし、来場者もありがたいのでは。それよりも万博会場は特区になるだろうから、ご高齢者や障がい者の方に歩行アシストロボットを無償で貸し出してあげる。ベビーカーをお持ちの方にはそこにアタッチメントをつけるとベビーカーがガイドロボットになる。そんなふうに考えた方が楽しいのでは。このくらいのことはいまぱっと資料を見ていえるし、2025年には実現できているはずだ。
(それ以前の説明打ち合わせの場でも、第2回【資料3】p.14に若者の意見の代表的事例として、
「【AI・ロボット】人⺠の、ロボットによる、人⺠のための街:昼は人間のスタッフが来場者をもてなすが、夜は会場案内、各種サービス提供を完全にAI・ロボットのみが行う。ロボットは日本のアニメ等のキャラクターを模したものを積極的に用いる。また、全てAI・ロボットなので、失敗しても良いことを前提にした時間や空間とする。」
 とあったので、こういう考え方は違うと思う、こんなふうにロボットと人間を分けてはダメだ、という話はした)
 どうせなら中途半端に現状の未来像を盛り込むのではなくて、もっと突拍子もないことをいっていいはず(突拍子もない、というのは、いまに縛られるのではなく、もっと鮮やかでセンスのよい、本当に2025年をつくるしなやかで強い未来像、ということ)。2025年に本当に流行を生み出せるような若手の開発者や科学者、クリエイターはきっとたくさんいるはずなので、そうした人たちに思い切りヴィジョンを語らせて、いまの更地にもっと面白いマップを描かせてはどうだろうか。そうした機会の場を今後は検討してほしい。


 私もまだ40代なので若いつもりです。だから「いまの若者は……」などというつもりはありません。
 アイデアの善し悪しに若いも年寄りもない。ですが万博のような場で、いいアイデアを実現するのは、一定の年齢以上の人なのだとも思っています。
 若者から提言が出るのはいい。ただ、その中にはセンスのいいものも、そうでないものもある。いいかどうかは虚心で判断するのが未来にとってはいちばんよいと思いますが、どうしても私たちにはしがらみがあって、未来は決して自由に選択されるわけではない。
 でもヴィジョンくらいは自由であってほしい。という気持ちは私にもあります。小松左京さんもそのようにお考えだったことでしょう。
 若者のアイデアは実際のところ、玉石混淆だと思います。それがふつう。
 ワークショップで勉強してもいまのトップクラスの学生がいい未来像を想像できないなら、それはかなり根深い問題で、サイエンスコミュニケーションの重要課題。未来を考える本当の強さ、しなやかさとはどういうことなのだろうか、と考えさせられます。ただ、少しずつ勉強を重ねればいい、とは思いますよ。未来というのは一度考えたら終わりではなくて、持続してずっと考え続けるものなのだから。
 ただ、せっかく万博検討会の資料に載せるなら、そこから少しでもよいものを掬い上げて厳選すればよいのにと私自身は思います。とくに【資料3】(案)のようなまとめ資料には、もっといいアイデアを載せればいいのに、と。

 だから事前説明の場では、少なくともロボットとAIのことに関しては、その場で気づいたことをいうように努めました。というのも、「ロボットがパビリオンを紹介」とかは、へたをすると本当にやってしまいそうなので、そっちの方がセンスがないと思ったのです。こういうところの方をもっと練り上げた方がいいと感じていました。
 人間とロボットの労働を完全に分ける、というアイデアにも上述のように反対しました。ロボットとの共存社会を考える上で、それはよくないと思ったからです。ですが私がいわないと、うっかりすると本当に計画されてしまいかねない。「待たない博覧会」というのも不可能な未来像だと思ったので、それも異論を述べました。もし完全事前予約制ができたとしても、何だか人間性が失われるかのようです。その時間にその場所に行かなければならないのですから。お子さんやご高齢者がいるご家族ではたぶん難しいでしょう。「万博婚」の騒ぎに隠れてしまったかもしれませんが、こういうのも大切だと思ったからです。まあ、個々の話ですが。
 医療については他に専門家の委員も複数いらっしゃるので、私があえていわなくても、という気持ちが先立ってしまいましたが、たぶんロボット・AI分野は私しかいえない。時間も限られているのでそちらをいうだけで精いっぱいでしたね。
 他の委員の方々が事前の説明打ち合わせでどのようなことをおっしゃっていたのかはわからないです。

 これでお答えになりましたでしょうか。
 この私の文は、どうか個々の文章というよりも、全体で読み取っていただければと思います。
 私はいま、なんとか作家としての活動を回復したくて、日々努力している最中です。以前のようにのびのびと、面白い小説を、もっとたくさん今後も書いていきたいのです。
 検討内容については第3回検討会の最後に「今後議長に一任する」と決まったので、いまはそのように受け止めています。
 どうぞよろしくお願いいたします。

 ブログで文章をメンテナンスするのはとても大変なので、未来永劫残すつもりはございません。
 一度発表したらずっと残しておくべきだ、それが道徳的な態度だ、という一部のご意見もあるのは存じておりますが、私は決して何か都合が悪くなって消すのではないです。内容に後ろめたいところはありません。もちろんウェブだからといって適当なことを書いているわけではございません。
 最近の私にはメンテナンスする気力と体力が大変なので、どうかご理解をいただければ幸いです。それにいまは、ウェブアーカイブのようなもので、後でも読めるのだと思います。
 書籍や雑誌は一度活字になって自分の手を離れるので、充実して、気力を保って次の仕事に取り組めます。そのような媒体がいまの私には合っているようです。

瀬名秀明


 3/19追記
 いま気がつきましたが、こちらでパブリックコメントの受付をしていました。ご活用ください。(連絡はなくて、自分でウェブを見ていて気がついた)
 ここにあるのは、検討会用にいただいた資料とは変更されていますね。11ページ以降の〈事業展開面〉本文中に(展開例)として引用掲載されていた、万博婚を始めとする若者のアイデアはすべて省かれています。末尾の若者のアイデア集もすべて取り除かれています。少し前進したように思います。
「2025年国際博覧会検討会報告書(案)」に関する意見募集について
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=595217005&Mode=0


 4/7追記
 本エントリーの1日あたりののべ閲覧者数が30名を切りました。アクセス解析を見ると最初の1日のアクセス数が多く、急速に減少し、一週間も経つと50名から30名になることがわかります。
 できれば2度、3度とお読みになってください。ご感想をお書きになるときは、できれば数時間から半日、1日お考えになってから、アップロードしていただければと思います。
 今回のことで私は体調も崩し、心療内科でも相談をしました。私にとっては大変なダメージでした。ようやく再開できた作家の仕事が、またできなくなりつつあります。それだけ真剣に受け止めているのだということはわかっていただきたいです。
 須藤玲司さんと、角川春樹事務所の文芸編集者である中津宗一郎さんは、ツイッターで互いに盛り上がるかたちで言葉をやりとりなさり、他にも医療や分子遺伝学の専門家(大学教授)らが複数いるにもかかわらず、検討委員の中からとりわけ作家である瀬名に標的を絞り込んで批判をなさいました。中津さんは私に対して「誹りを受けるのは当然」「愚行」「この体たらく」とまで書かれました。それに対して少なからぬSF業界者が評価ボタンを押したり、同調したりするのを見て、とても悲しく感じました。文芸編集者が公の場で私に対してこのような書き込みを平気でなさっていることに驚きを禁じ得ませんでした。
 もし作家である私が雑誌にこのようなことを書くなら、相当な覚悟がいります。ところが須藤さん、中津さんは、気軽な批判だった、悪気はなかった、仕事が立て込んでいて疲れていたから書いた、とおっしゃいます。本当にカジュアルに他者を批判しているのです。これは私がツイッターでからかうのに絶妙な距離感だったからでしょう。名前は知っているが仲間ではない、だから何をいってもいいのだという甘えはなかったでしょうか。私にはこの道徳観が理解できませんし、ツイッターがそのような場であるのなら悲しいことです。
 できればこの文章について今後ご感想をお書きになることがあったとしても、すぐさまお書きになるのではなく、少し時間を置きながら何度も考えていただきたいのです。どうか一部だけに反応するのではなく、私の文章の全体を観ていただきたいです。

 今回のことはSFおたくコミュニティのことを知らないと、よくわからないことだろうと思います。
 ひょっとすると中津さんなどは、ツイッター上で他の方が委員会を直截的に非難しているのを見て、「よし、自分でも批判してよいのだ」と気軽にお考えになったのかもしれません。須藤さんは委員会名簿をご覧になって、たまたまそこで名前に馴染みがあったのが山中教授と瀬名だった、だからこのふたりを名指しで非難した、ただそれだけに過ぎないかもしれないと思っています。本当は他の委員で専門分野に近い方が複数いらっしゃいます。しかしそうした方はターゲットになさらなかった。瀬名なら叩いても自分は安全だと思った、ということはなかったでしょうか。しかも須藤さんは途中から、他の委員は時間がなかっただろうから同情する、だが瀬名は違う、と私だけにターゲットを絞り込んでいます。他の委員は大物だから自分の身に何かあるといやなのでターゲットから外すが、からかいの対象として瀬名はちょうど適当な人物だった、ということだったのではないでしょうか。
 こうした行為は、いま悪い意味で使われている「忖度」(先回り服従)の姿ではないでしょうか。あるいは、もう少し正確にいうなら、「仲間はずれにされるのが恐いので悪のりして周りの雰囲気に同調してしてしまう」傾向、ということです。
 私は以前から「SFの精神性」と「おたくの精神性」は別だ、それをごっちゃにして語ることは危険だ、と主張してきました。「おたくの精神性」のなかに、仲間内の失言に関しては言葉を濁すが、自分と無関係と思っている人に対しては積極的にゲラゲラと嘲笑する、というものがあるように思います。「おたくの精神性」は道徳的な忖度を嘲笑する傾向がありますが、実際は先回り服従のような同調圧力に非常に敏感で、たとえば今回の筒井康隆さんの失言におかしな擁護をしたり、ふだんなら喜び勇んで話題にするようなことなのに自分の仲間のことになると触れずにスルーしたり、といった傾向が見られるように思いますす。
 ご注意ください。ここで私は決しておたくの人そのものを非難しているのではありません。十把一絡げにおたくが悪いなどと乱暴な話をしているのではないです。誰にでも多かれ少なかれおたくっぽいところはあります。以前からこの話はSF読者の方々に対して丁寧に語りかけてきたことです。どうかおかしな誤解をなさらないようお願いします。
 忖度とはもともと悪い意味ではないと私は考えています。つまりそれは人を思いやる能力、私は以前からエンパシーだと申し上げてきました。人の傷みを積極的に理解した上で、それに対してよい行動ができる人間らしいパワーのことを指すと思います。看護の基本はエンパシック・アンダースタンディングであり、私はこの言葉が好きです。本当にエンパシー能力に優れた人は、軽々しく「忖度」という言葉をあざ笑ったりしないように思います。このエンパシー能力の本当の素晴らしさをサボタージュして、自分を甘やかす方向に使ってしまうのが先回り服従、コミュニティ内での同調的態度ではないでしょうか。

 おたくの精神性には他にもいくつか特長があるように思います。自分の発言を撤回できない、いったん意見表明してしまうとそれを覆すのがプライドとして我慢ならない、という感覚です。
 今回の万博の健では、毎日放送がつまらないギャグのようなかたちで報道をしてしまった。そこには「パビリオン案「万博婚」」という、元々の資料にも載っていない、ぎょっとするような表現がつかわれていた。毎日放送の記事はこうした揶揄するかのような表現をした上で、実は学生のアイデアです、というオチを記事の最後につけていましたが、そこを読み飛ばしてしまった人も多いようです。
 この毎日放送の稚拙な報道記事を最初に読んで受ける印象と、委員会の席でパビリオン案とか結婚とさえ書かれていない資料文面を見て感じる印象は、だいぶ違うと思います。今回のことは、その第一印象の違いが齟齬になって出ているのだと思います。これが第1の点です。
 資料におけるこの部分の主眼は、もともと健康と長寿というところからはじまったのだから生命科学や医療の成果を取り入れて万博らしい人間同士の出会いを演出しよう、ということだと思います。そのこと自体に私は異論はありません。ただ事例として挙げてあるものが、これに限らずすべてピントが外れていると感じました。だからそのピントの外れた感じをなんとかしてくれと委員会では申し上げたのです。
 瀬名は非道徳なアイデアを容認して資料内容を放置したのではないか、と誤解なさっている方もいらっしゃいますが、そうではありません。少なくとも検討会の席では、もっと他に指摘するべき問題点があったので、限られた時間の中でそちらに注力したのだと私は申しています。私が再三にわたって経産省に伝えたことは、練り込まれていない若者のアイデアばかりを取り上げるな、未来像を描くならもっとちゃんとしたクリエイターや専門家の意見を取り入れてくれ、ということです。
 第2の点は「おたくの精神性」がもたらす仲間内の同調性の問題だと思います。瀬名はSF業界からいまや外れた場所にいる。他の人も叩いている。だからカジュアルに叩いてもよいのだという甘えはがあったのではありませんか。そうだとしたら本当に悲しいことです。それはSFの精神性ではありません。そういう人にSFなどといってほしくないです。
 70年大阪万博のときでさえ、小松左京さんに対しては、体制的だというイメージで陰口をたたかれていたかもしれません。小松さんご自身にそんなところはなかったと思いますが、イメージが先行していた可能性があります。
 第3の点として、このように相手側がしっかりと返答しようとするとき、ヘンなギャグでオチをつけられて返される、という傾向が強いという問題があります。これは以前から私が指摘していたことで、笑えないギャグでその場を取り繕われる、こちらの精神的なダメージばかりが残る、ということがあります。これは本当に改善をお願いしたいところです。
 かつての筒井康隆さんの笑いの精神は、時代を撃つものだったと思います。それにあこがれた読者も多いでしょう。しかしもうズレている。それでは物事は解決できないのだ、ということは、多くの人がわかっていることだろうと思います。

 おかしなアイデアを出したinochi学生プロジェクトの学生さんたちは、今後「WAKAZO」というウェブサイトで100の提言を再び掲載し、広く一般の方からの意見を受け付ける方針だと、大阪府職員からうかがいました。100の提言に問題があると思われる方は、学生さんたちのウェブページをご覧になり、意見を投稿なさるととよいと思います。
 私が大阪府の職員さんに対して強くお願いしたのは、ひとつの学生団体だけをあたかも特別扱いするような組織づくりはしないでほしい、ということでした。一般・若者のアイデアの窓口がinochi学生プロジェクトだけだとしたら、それはとても問題があります。そうしないでほしいと私は伝えました。
 大阪府の職員さんからうかがいましたが、経産省の資料に掲載されるまで、inochi学生プロジェクトの提言内容に「これはちょっと違うんじゃないか」と意見をした大人は、誰ひとりとしていなかったそうです。このことが私はいちばんの問題だと思います。inochi学生プロジェクトは日本再生医療学会の理事長を始め、トップクラスの著名研究者が関係しています。100の提言はそうした人々の前でプレゼンされた上で大阪府知事に手渡されました。そのイベントには万博検討委員会のメンバーも参加していました。彼らは提言のヘンな内容を知っていたはずです。
 inochi学生プロジェクトの提言内容に意見をしたのは、私が初めての人間だったかもしれません。inochi学生プロジェクトにはちゃんとした大人のファシリテーターをつけてほしい、と私は大阪府職員に強く要望しておきました。ちゃんとしたファシリテーターがついていたなら、そもそも今回のようなことにはならなかったはずです。
 検討委員会の後、私は少なくともここまでのことは大阪府にいいました。
 その私が名指しで、SFをよくお読みのはずの方々から、おそらくは名簿で名前が目立ったというそれだけの理由で批判を受けたのは、いまもやるせない気持ちでいます。おかしな雰囲気同調の結果だったのではないでしょうか。
 誤解のないように何度も繰り返しますが、もし実際に万博婚をやるという話だったら、絶対にNOだと私はいいます。そもそもそういう前提での検討会ではなかったし、実際にそんなことは思い至らなかった。いま考えても、委員会の場でそこまでやるのはとても無理だと思いますし、これは先回り服従でも何でもありません。ロボット・AI分野の提言にも倫理的にまずいものはいろいろありましたから、限られた時間の中でそちらに対しては異論を述べています。限られた時間の中でどちらを阻止するかといわれたら、私ならロボット・AI分野の倫理的まずさを阻止します。しかしたとえそうであっても「万博婚」の記述掲載を阻止しなかったのは愚行だ、専門家の委員ではなく作家の瀬名が悪いとまでいわれるのはやるせない気持ちです。しかもその非難を気軽に、悪気もなく、公の場に書き込む道徳観は、私にはわからないです。
 パブリックコメント用の資料では、すでに若者のアイデアはすべて削除されています。
 ここまで述べても、なお瀬名にいちばんの責任があるともしお考えの生命倫理専門家がいらっしゃるとすれば、その方はかなり強硬なご意見の持ち主だと思います。
 今回の件は、
・ずさんな報道の第一印象が多くの一般の人に刷り込まれてしまった問題。
・SFの精神性とおたくの精神性の混同の問題。
・若者の提言をねじれたかたちで用いた大人側の問題。
・若者側の想像力の問題。
 こうしたことの複合問題だと思います。もちろん私自身に何も非がないとまではいっていません。しかしそれはすべての委員にいえることです。
 それでも、私だけがことさらに非難を受けました。私に対する悪印象だけはずっといつまでも残るでしょう。どうかSFの読者であることを、もっと大切になさってほしいと切に願います。SFに対する私のいつまでも変わらぬ願いは、ただそれだけです。

瀬名秀明


 4/11追記
 2025年国際博覧会検討会報告書取りまとめ発表。瀬名はこの作成作業に関わっておりません。発表後に内容を見ました。
 ニュースリリース、報告書、パブコメ結果。パブリックコメントが27件しか寄せられていないことに驚き。
http://www.meti.go.jp/press/2017/04/20170407004/20170407004.html
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=595217005&Mode=2


 4/23追記
 検討委員会参加によって得た手当10,730円×3回=総額32,190円は、本日すべて公益財団法人ドナルド・マクドナルド・ハウス・チャリティーズ・ジャパンへ寄附いたしました。
瀬名秀明
posted by Hideaki Sena at 16:03| 仕事