2015年12月08日

日本SFコミュニティについて考えること(その13)

(その12からの続き)

 ここまでは、印象論ではありながら、SFコミュニティの人たちにわりとよく見受けられると思える傾向と、そうした傾向から出てきているのではないかと思えるゴシップやうろたえ、誰かをパージしようとする動き、傍観者効果、といったことについて書いた。
 あまり表面的には問題にならないが、他にもいくつか特徴のようなものはありそうだと私は思っている。
 たとえば、「SF者(もの)」という表現は、どうだろう。科学者や技術者が自分のことを「物理屋」「化学屋」というのとはニュアンスが大きく違っていて、自分のことを「SF者」だという人がいたら、まず確実にその人はSFコミュニティの人だと思ってよいだろうが、私はどうもこの言葉のなかに、ある種の甘えが含まれているような気がするのだ。
 科学者や技術者がおのれを「○○屋」というとき、「自分は一介のプロです。余計なことは口出ししませんが、与えられた仕事はプロとしてやり遂げます」という、謙遜のなかにも矜持の心意気がある。しかし誰かがおのれのことを「SF者」といった場合、それは「自分は社会常識から外れた人間ですが、特殊な人間なのですから大目に見てください。しかし私のプライドを傷つけたら許しません」という甘えの表明に思えてしまうのだ。いや、瀬名の考えは間違っているよ、という人もきっといるだろう。ばかにするな、と思われた方がいたとしたら申し訳ない。私はここでそれを非難しているわけではなく、そのように見えてしまう視点もあるということを述べたいだけだ。こうした食い違いがいろいろなところで積み重なっているということだ。
 SFとは未来を語るものだ、という感覚は、たぶん多くの一般読者の間で共有されていることだろう。未来を語る人たちなら新しいものに興味を抱くはずであり、先進的な考え方の持ち主であるはずだ、と思う。しかし実際のSF社会が、かなり保守的に感じられることはないだろうか。なぜ未来を語るはずの人たちがこんなに保守的なのだろう、と私は以前から思っていたものだ。
 ジョナサン・ハイトは著書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』(紀伊國屋書店)で、まず人間は直観的に物事の善し悪しを決め、それから理由付けをしてゆくものだ、との説を展開している。合理的な判断だと本人は思っていても、けっこう最初の直観で決めているのだと。そしてハイトは、ケア、公正、忠誠、権威、神聖といったようにいくつか道徳基盤を区分し、どういった政治的信条の人がどのような道徳基盤を強く持っているのかを調査した。
 リベラル、リバタリアン、保守主義。リベラルはケアや公正さを重視する。リバタリアンはケアに重点を置かない。一方、意外なところでリバタリアンと保守主義は近いことがわかった。保守主義は忠誠、権威、神聖といったものを重視するが、「平等」ではなく「自由」という言葉を神聖視するという点で、リバタリアンと保守主義は近かったのだ。私はこれを読んで、何となくだが「おたく」の精神性を連想した。
 こうした傾向や特徴については、もしかすると今後、社会心理学や脳倫理学がさらに発展することで、より深い議論ができるようになるかもしれない。日本SF大会の参加者に道徳基盤のアンケート調査をやったら面白い結果が出てくるかもしれないと思う。そうした研究成果が集まれば、SF社会も少し変わるかもしれない。私は自作のなかでメタファー≠ニいうガジェットを登場させたことがある。人々の道徳観が社会のなかでどのように動いてゆくかを予測し、可視化するシステムだ。人工知能の研究は、いずれ遠からずそのようなことをやるのではないだろうか。

 あとふたつ、書いておかないといけないことがある。ひとつは、こうした道徳部族的な傾向とは別に、ごく一部の人に見られる攻撃的な行動だ。それは「おたく」の精神性そのものとはたぶんあまり関係がない。たまたまその人はSFコミュニティ内の人かもしれないが、あくまでもそれは個人のことになる。
 そしてもうひとつは、たぶんこれがいちばん深いところだと思うのだが、「おたく」の精神性が人間の弱さと結びついてしまったときに生じる、深刻な衝突だ。
 何度も書いてきたように、私は「おたく」の精神性そのものに何か本質的な問題があるとはまったく思っていない。世界観の齟齬は生じるが、それでも私たちは相互理解が可能だ。《私たち》対《彼ら》のメタ道徳を実践することはできる。
 しかしそこに過剰なプライドや、自己愛、甘え、といったものがくっついてしまうときがあって、それが「おたく」の精神性、ひいてはオーバーラップしたその人の「SF」環世界にも影響を及ぼしてしまうと、その人間的な弱さがあたかも「SF」の精神性だとその人のなかで錯覚されてしまう。そうしたときに強い軋轢が生じ、現場で問題が顕在化してしまうのではないだろうか。

(その14・最終に続く)

揚げ足取りにはつきあわないから、「SF者」の部分は消したよ。

【2017/10/2, 12/1追記】
 もともとは本文中に「SF者」という言葉を出し、それに(エスエフもの)とふりがなをつけておいたのである。するとこのエントリーを読んだ(それなりにSFファン界隈で名の通った)読者から、長々と読んだがとりあえず「SF者」を「エスエフもの」と読むということはわかった、などといった旨の揚げ足取りがツイッターでなされたのであった。一部の古参SFファンは「エスエフしゃ」と発音するようである。ただし私は誰かがそう発音している現場に出くわしたことはない。
 以下のブログ記事が興味深く、また典型的な例であると思うので紹介しておく。コメント欄に注目されたい。「SF者」であると自称するこのブログ記事執筆者は、WIという人の指摘の内容がまったく理解できていないのである。指摘が理解されず擦れ違っているという事実そのものが、この問題の奥深さを示している。
http://blog.goo.ne.jp/kats-takami/e/ef55b1e05ac629fa794894e1f5b8928c

 いったん削除した部分は、今回復活させた。2段落目から7段落目が、以前に削除した部分である。
posted by Hideaki Sena at 19:32| 仕事