2015年12月08日

日本SFコミュニティについて考えること(その11)

(その10からの続き)

 この文章はTogetterを参照するところから始まった。Togetterというのは「まとめ」であるようでいて、実は作成者による環世界が表現されているわけだ。
 だから本当は、きちんとした議論には向かないのだと私は思う。「まとめ」というとそこに客観性があるように思えてしまうから、「あの発言が入っていないじゃないか」「このまとめ方は自分の感じ方と違う」などと、作成者の無意識のバイアスに苛立つ当事者も出てくるに違いない。
 近い将来、こうしたTogetterのような機能はそれこそ人工知能がやればよいと思うが、それではまとめるという楽しみが奪われてしまうのだろうね。ここにも人間の本性に通じる部分がある。またどの程度のバイアスを織り込みながらまとめられるか、そのくらいであれば公平な感じが出せるのか、という課題は、人工知能研究にとっても面白いものになるかもしれない。

 むかし10代だったころ、『小松左京のSFセミナー』(集英社文庫)を読んで、「うーん、やっぱり日本SF大会に行ったり、ファン活動をしたりしないと、本当のSFファンではないのかなあ……」と無垢に思ったりしたものだ。まあそういう世界への憧れも少しはあった。いま考えると、これは私自身がSFへの憧れと、SFコミュニティ社会を取り違えていたということになる。
 では、「SF」の精神性とは、どのようなものだろう。端的に言えば、未来へ想いを馳せる精神性となるだろう。
 科学や技術の本質とも近い精神性であるからサイエンス・フィクションであるわけだが、初期の日本SF作家のうち、たとえば星新一さんや小松左京さんの作品群に鮮やかに見られるものであった。しかし狭義の科学技術だけでなく、たとえば社会というものの未来を考えようとしたのは眉村卓さんであったし、精神理論や文学理論とも繋げながら社会や人間のあり方を描いたのは筒井康隆さんだった(かなり大雑把にいっています)。こうした作家を読んで育った人たちなら「SF」の精神性というものに対するある程度の共通認識はあると思うから、 SFファンなら「SF」環世界のベン図は重なり合うはずだという思い込みもかつてはあっただろう。
 いまでいうと、このようなストレートな「SF」の精神性は、たとえばレイ・カーツワイルとか、ミチオ・カクあたりに受け継がれているのではないかと思う。でもこういう人たちは、少なくとも日本では、SFの人だとはあまり思われていない(海外だとまた違うかもしれない)。
 彼らもおたくには違いないだろうが、「おたく」の精神性≠ゥら外れるからだと思う。精神史の共有感が希薄だからだ。しかし科学者や研究者でおたくっぽい気質を持つ人は、わりとカーツワイルが好きだ。比較的バランスが取れた人ならカクが好きかもしれない。それぞれ別の社会に行けば、彼らと精神史を共有できる人がいるということだ。
 私がここで話してきた「おたく」の精神性とは、広義で言えばこうした精神史を共有できる何かということになるのだろうが、いまここではもっと限定的に、戦後SFの歴史と微妙に重なり合ってきた「おたく」の精神性について書いている。しかしいくらか視点を変えれば、他の分野における「おたく」の精神性にも当て嵌まる部分があると思う。
「おたく」の精神性を共有する人たちは自然と集まり合うことで、ゆるやかな共同体が形成されてゆく。そこで道徳観がつくられ、道徳部族が起ち上がってゆく。実際にファンサークルといった共同体に参加したことのない人でも、精神として繋がっている場合はあるかもしれない。道徳部族は厳密にどこか特定の集団を指すわけではないからだ。
 さて、ここまでさほど突飛な話をしてきたわけではない。だが順を追って書いてきたのは、この文章の最後に、もう少し先の話をしたいからだ。
 現代において、いろいろとSFコミュニティのなかでゆがみが顕在化してきているように見える。この原因はそれぞれどのように考えられるのだろうか。「SF」の精神性と「おたく」の精神性の取り違えということがあったとして、そこにあるさまざまな側面が別々の問題を生み出しているように思えるし、またたんに取り違えと言うことばかりではなく、人間の本性そのものに起因するものもあるように思える。

(その12に続く)
posted by Hideaki Sena at 15:28| 仕事