2015年12月08日

日本SFコミュニティについて考えること(その10)

(その9からの続き)

【精神性】

「SF」というものについて、一般読者とSFコミュニティ内部ではその捉え方が違う、ということは、たぶん多くの人が納得していただけるところではないかと思う。ここを出発点にしよう。
 ここでいま、SFのことが話題になっているとする。一般の人は自分たちの感覚の範囲内でSFについて語っている。ところがSFコミュニティの人たちは、いつのまにか「おたく」の精神性について語っている。そしてその精神性が、あたかも「SF」の精神性であるかのようなまとめ方をする。一般の人たちは、そこがうまく理解できず困惑する。このような状況は、いろいろなところであるように思える。
 ひとつ例を挙げよう。長山靖生さんの著作『日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで』『戦後SF事件史 日本的想像力の70年』(いずれも河出書房新社)だ。最初の本はまさに日本「SF」の精神について広く資料を参照しながら追っているのだが、二冊目の本になると著者のサブカル的な個人史という雰囲気が強くなってくる。「SF」の精神性から「おたく」の精神性への変化が、この二冊の間にあるように私には思える。そして「おたく」の精神性が「SF事件史」と言うタイトルでまとめられている。事件を起こしているのは多くの場合「おたく」の精神性なのだと思うが、結果として表面に出てくる事象は「SFの事件」と認識される。本当は二冊目の書名は『戦後おたく精神史』であってよいのに、『戦後SF事件史』になっている。
 とりわけある世代にとって、「SF」の精神性と「おたく」の精神性は非常に近いものだった。コミュニティ内部からの視点であれば、そこはとくに切り分けなくてもよかった。しかし外部の視点からすると、そこの部分がぐずぐずであるように見えることは、大きな問題であると感じられる。それはなぜかというと、「SF」の精神性には興味があるが「おたく」の精神性にはあまり興味がない、という価値観の人が外部には存在するからだと思う。あるいは自分のなかにある「おたく」の精神性は別の分野、たとえば科学技術の研究活動の部分で発揮したいが、SFに接するときは純粋な読者でいたい、という人も少なくないはずだ。そうした読者が抱くSFコミュニティへの期待像が、実際のSFコミュニティと齟齬を来す、ということはよくあるように思える。
 もう少し言うと、『日本SF事件史』ではなく『戦後SF事件史』であるのは、事件が著者の人生と重なり合っているからで、著者自身の視点位置からのSFということになっている。自分が直接見聞きしたのではない幕末・明治時代なら『日本SF精神史』になるが、自分が生きてきた時代になると、自分の視点が大きくなるかのようだ。
 私はこれまで何度か、視点位置の問題を小説のテーマにしてきた。サイエンスの分野でもこれは重要なテーマで、先に紹介した内藤朝雄『いじめの構造』やジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ』も、大集団(広く人間社会)における個々の小集団(小学校のクラス)の視点をどのように捉えるか、小集団間の相互作用はどのようなものか、といった問題が取り上げられていた。人工知能研究者の中島秀之は、かねてから虫の視点と神の視点の違いに着目し、虫の視点から見たエージェントの知能を考え続けている。著書『知能の物語』(公立はこだて未来大学出版会)が参考になる。
 私たちは基本的に、虫の視点で世界を見ている。私とあなたはどちらも虫だ。地面に足をつけて、世界を見ている。二匹の虫が出会って何か共通の話をしようとするが、どうも世界観が合わない、ということがある。同じテーマを話していても、それぞれの虫が見る世界は違うからである。
 これも私の印象だが、SFコミュニティの人たちと話しているとき、「自分には関係ない」とか「みんなそう言っている」といった言葉を聞くことが意外とよくあって、その関係なさ加減≠竍みんなの範囲≠ェ自分とずれていて戸惑うことがある。私が注意してそうした言葉を聞いているので、意外とよくある、と思ってしまうのかもしれないが、これも見え方の違いだということになるだろう。私がある話題をしていて、それはSF社会のあり方について大切な話だと思っている。しかし相手は自分の興味の範囲外である。一方で、彼が自分の交友関係に広がる世界を見渡すと、ある別の事象については「みんなそう言っている」。私の方が考えているSF社会のベン図と合わないので、「そうかなあ? 本当にSF社会ではそれが主流なのかなあ?」ということになる。
 こちらの方としては、むしろ相手の方がSFの専門家であって、その世界での業績に敬意を払っている。こちらは外部の人間として話しかけている、という感じだ。相手の専門に乗っかるかたちでSFの話をする。ところが自分のSFのベン図と合わない。ここからは私の仮説だが、なぜそういうことになるのかというと、たんに「SF」の捉え方が違う、というだけの話ではなくて、もう一歩踏み込んで考えるならば、相手は自分の生きてきた精神史を通してSF世界のベン図を描いており、それが彼の「おたく」精神史とかなりオーバーラップするかたちで環世界が語られるからではないか、と思うのだ。ちなみに「環世界」というのはユクスキュルが唱えた動物行動学の概念である。「おたく」の精神性がある程度切り離された「SF」環世界と、それが自然にオーバーラップした「SF」環世界では、互いに齟齬が生じるのも無理はない。ところが、向こうの方がSFに詳しい、むしろSFの専門家であるために、向こうの「SF」環世界のほうがあたかもより正確なSF社会の世界観であるかのように判断されるケースが出てくる。
 もちろんひとりひとりの生き方は違うので、それぞれの環世界も異なるのだが、その人の「おたく」精神史と影響し合いながら「SF」世界観が創られているという点では似ている。
 ちょっと難しい表現が続いてしまったが、直感的には理解していただけるのではないかと思う。ここが一般読者とSFコミュニティの齟齬の第一歩だと私は思っていて、ここにいろいろなことが付随して、ときに人々の価値観や道徳観の相違が顕在化しているのだと考えている。
 本当は、このふたつの環世界は、それぞれ別々の名前で区別した方がいろいろと混乱せずにすむのではないかと思うのだ。私にはまだうまい言葉が見つからない。日本SF作家クラブだとか、日本SF大賞とか、日本SF大会といったとき、その名称のなかにある「SF」という言葉をどう捉えるか。少しずつその人の「SF」環世界によって異なってくる。そしてそれぞれの実態もまた、それを運営し、集まる人々の背景によって変わってくる。なかでも価値観の違いが顕在化しやすいのは、「おたく」の精神性を背景に持つ人と、あまりそういう背景がなく「SF」を「SF」の精神性として捉える人が向き合ったときなのだろう。

(その11に続く)
posted by Hideaki Sena at 15:27| 仕事