2015年12月06日

日本SFコミュニティについて考えること(その2)

(その1からの続き)

【いじめ構造】

 もともと藤田直哉さんがツイートなさるようになったのは、日本SFコミュニティにいじめ構造はあるか、という私の問題提起からだったのではないかと思う。
 藤田さんの一連のツイートには複雑な背景があって、ここで短く記すことは難しい。Togetterに登場している方々の一部はそうした背景の段階から藤田さんと関係しているのであって、そのときのことが現在まで続いているのだろう。とりわけ強い罵倒の言葉を書いているのは、そうした方々だと私は思っている。
 その背景についてはすでに解決された部分もあると思うので、ここで触れる必要もないと思うから触れない。藤田さんが紹介なさっているように、2ちゃんねるSF板の藤田さんのスレッドに私が書き込んだのは、そうした背景そのものを越えて目に余る内容の書き込みが続き、それらがむしろ人の心をおかしくさせ、事態を悪化させていると感じたからだ。
 ただ、その書き込みをした翌日、私はSF業界のある人から長文のメールを受け取った。かなりざっくりといえば、いま私たちは藤田直哉さんを追及しているところなので、彼に同情的な行動を取ることはやめてほしい、というもので、私はそれを読んで大変な絶望感に陥ったものである。
 その人に拠れば、藤田さんはかつて匿名で瀬名に対する批判的な文章を2ちゃんねるに書き込んでいた、私たちはその証拠をつかんでいるのだとか。ついては瀬名にも説明するから日時を空けておいてほしい、とあって、私はその人の文章に強い自己愛を感じた。瀬名が精神的に疲弊したのは藤田のせいだ、私たちは悪くない、私たちは瀬名のことを心配している、藤田の責任が確定すればSFコミュニティの尊厳は回復できるし、瀬名は私たちを再び認めてくれるはず、という自己愛が込められているように思えたのである。心配しているといいながら、実際は「自分のことを認めてほしい」といっているかのようだったのだ。
 はっきり書いておくが、私は藤田さんから何かひどいことをされたとはまったく思っていない。それこそ瀬名が騙されている証拠だ、という方もいるかもしれないが、私の精神が疲弊したのは藤田さん個人のせいではない。それにたとえ何か過去にあったのだとしても、彼はいま「反省しています」といっている。この言葉はちゃんと受け止められるべきだと思うから、私はいま藤田さんに対しては、以前に2ちゃんねるに書いたことと同じ、今後あれこれいう人もいるかもしれないが、あなたは評論家なのだからその仕事で頑張ればよい、あなたとはかつて「未来との親睦」の話をした、そのことを思い出してほしい、という気持ちでいる。

 SFコミュニティにいじめ体質、いじめ構造はあるか、といえば、まああるだろう、と私は思う。それはしばしば問題になって、いわゆるSFコミュニティ以外の一般のSFファンの人たちにも迷惑をかけている、とも思う。
 ここから先、言葉の定義が重要となる。必要なときにひとつひとつ書いてゆくことにする。まず「SFコミュニティ」とは何かだが、一般のSFファンよりもファンダムや業界に近い社会、と大雑把にはいえる。ファンダムというのはSFファンの世界、ということであって、かつてSFファンサークルなどに参加していた学生たちが大人になってプロの作家や翻訳家、評論家、編集者になっていった。現在起こっている問題の多くは、そうした当時のファン活動の精神の延長でSFコミュニティが動いてしまい、それが一般社会の倫理観と齟齬を来していることに原因があるのではないかと思う。
 こう書くと、「私はSFファンサークルには入っていなかったよ」という反論が出てくることが予想されるが、問題の本質はもう少し深くて、これを私は「SF」の精神性と「おたく」の精神性の違いだと捉えている。ここでも「おたく」とひとくくりにするな、という意見が出てくるだろうが、追って記すのでもう少し待ってほしい。
 SFコミュニティのいじめ構造を、小学校のクラスのいじめにたとえてみたい。40人のクラスがあって、ひとりの生徒が4人からいじめられているとする。あとの35人はしらんふりをしている、あるいは無関心である。これが一時の日本SF作家クラブだったように思う、と藤田さんは問題提起しているのではないだろうか。
 Togetterを読むと、「自分の周りでは和気藹々とやっている」「自分には関係ないことだ」と発言している作家が何人か見受けられる。いじめの構造という全体的な話題をしているときに、こうした発言はほとんど意味がない。作家は個人主義が多くて、派閥には無関心だ、という日下三蔵さんの発言もあるが、そうしたスタンスをここで強調することは結果的にいじめを助長していると私は思う。
 いじめられている子が、それを先生に訴えたとする。「あなたたち、いじめなんてしちゃ、だめじゃないの」と先生が怒る。しかしクラスの大多数、35名が「ぼくたちは関係ありません」「ぼくたちの周りではみんな仲よくやっています」というのでは、いじめられている子は絶望的な気持ちになるだろう。もともと疎外されて追い詰められていたのに、そこへさらに追い打ちをかけるようなものだ。その子の親がいじめを社会に告発すると、今度は学校や町内が「いじめの形跡は認められない」といったりする。かえって告発したその家族が追い詰められてゆく。内藤朝雄『いじめの構造』(講談社現代新書)でも書かれている状況だ。
「日本SF作家クラブがいやなら、やめればいい」と日下さんはおっしゃっているが、これもまたいじめ構造につながってしまいかねない発言だと私は思う。「いじめがいやなら転校すればよい」という論理だが、なかなか難しい。
 実はジョルジュ・シムノンの長編『黄色い犬』では、コンカルノーの町人たちにいじめられている容疑者とその恋人が、物語の最後に町を去る。いじめの現場から離れることは決して敗北ではない、むしろ勇気ある決断であるから、コミュニティを去るというのは当人にとってひとつの重要な選択肢だ。しかし彼らが去っただけでは、コンカルノーの町はよくならない。また同じことが繰り返される可能性が高い。
 もうひとつ、SFとは本来とても広いものだ。科学のことを小説で扱えば、それは一般社会からSFと見なされるだろう。私自身、いまも多くの一般読者や編集者からはSFの書き手だと思われているわけだ。そうすると、自分は離れたつもりでも、ずっとSFの亡霊につきまとわれているような感覚に陥る。「大人なのだからいじめられていると思ったら逃げればいい」というのは、少なくともいま問題になっているSF社会のことにおいては、現実を捉え切れていない発言のように思えるのだ。

(その3に続く)
posted by Hideaki Sena at 17:06| 仕事