2017年05月17日

同じ「道徳観」の仲間と話すならストレスを感じないが、違う「道徳観」の人と話すとストレスなので「先回り服従」を強いられる?

 こういうことではないかと思いました。
 今回私が話をした方々は「おたく」だと自覚・自称なさっているので、もしかしたらこういうケースは一種の典型例なのかも知れないと思い、書いてみます。(決して十把一絡げ論、認知の歪みによる一般化のしすぎをしたいのではありません)
 今回「瀬名とは道徳観・倫理観が違うので話ができない」と、最後にある人からいわれたのは衝撃的でした。それで、ずっとわからなかったことがわかったような気がしました。
 えっ、ではその人はいつも「道徳観・倫理観」が同じ人とツイッターで日常的に話しているのか。その人の身の回りには「道徳観・倫理観」が同じ人がたくさんいるから、だからいつもは楽しく話ができているのか。これは衝撃的でした。それでわかったような気がします。
 この文章は、誰かの気持ちを逆なでしたり、怒らせたりするのが目的ではありません。よい話し合いをするため、よい関係性を築くためのヒント、発想として書いてみます。

 私たち人間は、自分と同じ仲間だと思う人と話すときはストレスが少ない。
 違う価値観、道徳観の相手だと、話すのにストレスがかかる。
 これは人間なら誰でもあたりまえのことです。

 現実の社会で、多くの場合、私たちは自分とは価値観や道徳観が異なる人と話をして、解決策・落としどころを見出そうと努力しています。話し合いというのはそういうものですね。拙作『インフルエンザ21世紀』にも書きました。
 自分と相手はそもそも価値観や道徳観が異なるものだ、というのは、少なくとも私には自明のこと、前提のことです。
 ところが、これがよくわからない人というのが世のなかにいる。

 なぜ「忖度」を「先回り服従」と考えてしまう人と「思いやり」と考える人に分かれるのでしょうか。なぜ「おたく」と自称なさる方の一部は「忖度」が大嫌いなのでしょうか。私からすると、「礼儀」と「服従」の使い分けが混乱しているように思えるのですが、相手にとってはきっと一貫した道徳観があるはずです。それは何でしょうか。

 ツイッターは、アカウントを取っていない人でも読むことができるので、公の場だと私は考えます。
 しかしツイッターは、自分が「これ好き!」「同感!」「共感した」というものをリツイートしたり、ハートマークをつけたりすることができます。「道徳観・倫理観」が同じ人が話題を共有できるシステムが強い。共感、つまりシンパシーを伸ばすシステムになっていますね。
 公共の場でも、そこにできるコミュニティ、サークル、仲間は、閉じた共感として形成されること多い。

 そこに、別の価値観の人が入ってくると、面食らってしまう。
 とくに私のように、世間で有名人だと思われているひと、たとえば今回のように国や府の会議に出ている人は「公人」と見なされることがある。
 自分は「私人」「一般人」「いつもおたく≠ニいわれて差別を受けてきた側の人間」「マイノリティ」「納税者」と考えている人には、私が「個人の範囲でお答えします」といったとしても、権力を振りかざして襲いかかってきたかのように思えてしまう。こちらは圧力を掛けているつもりはないのに、圧力、弾圧だと感じてしまう。
 思い込みのヒエラルキーが、その人にとってストレスを生んでしまう。
 自分と違う立場の人の気持ちを考えるのは、ストレスだから、それは「思いやり」ではなく「先回り服従」に等しい。
 先回り服従は道徳的に許されることではない。そんなものを強要されるいわれはない。
 だから自分と立場の違う人にはどんなきつい言葉を吐いても構わない。それは納税者・私人・マイノリティとして当然の権利、正義である……。

 自分は「私人」「マイノリティ」の側である、けれども自分の主張はマジョリティであり民衆の代表である、という考え方がここにさらに入ると、「正義感」が生じてきます。権力に対抗する民衆の正義、という図式が生じます。
 これは大きなすれ違いの原因になるでしょう。
 とうぜん、話は噛み合わなくなります。「道徳観・倫理観が違う人とは話ができない」となるでしょう。
 ですがこちらからすると、それは社会の断絶です。
 私だって納税者、民衆の一人なのですけれどね。
 私はいつも一人の人間として発言してきました。作家とはそういうものです。それが一部の人にとってカンに障る、ということの正体かも知れませんね。
 瀬名は公人だと思って嘲笑してきた、だがどうもこちらが思っていたポジションと違う、自分が最初に考えた信念と違う、だから戸惑う、怒りが生じる……。これが私の体験してきた20年かも知れないと、思うことがあります。

 SFを書く人とSFを読む人が一定数いる、というだけで各々の意見はバラバラ
 という主張がありました。
 もちろんその通りです。
 ですが一方では、一部の濃い同好会、ファン活動、業界内集団、(私がかつてSFコミュニティという名前で定義したもの)、ひょっとするとそうしたものは、「道徳観・倫理観が違う人とは話ができない」とときにいってしまうほど、実際は「道徳観・倫理観が同じ(という錯覚を起こす)仲間たち」なのかもしれません。その点ではバラバラではなく、似ているのではないでしょうか。

 道徳観・倫理観が異なるもの同士がいかに有意義に話をするか、については、以前に『モラル・トライブズ』を例にして書きました。私たちは道徳部族ですが、それでも互いに話し合えることはあるのだろうと思います。

 何がその人にとってストレスであるのか。
 これが「おたく」を自称なさる方々と、そうでない人の、一番のディスコミュニケーションなのかも知れないと、思っています。
 SFは「おたく」の人だけが読むのではありません。
 たとえば日本SF大会に行くと、家に帰ってきたような安心感、ほっとする感じがある、という人は多いと思います。ところが私にとって日本SF大会はすべてが緊張の連続。常に張り詰めた気持ちで、しかし顔は笑顔をつくっていなければなりません。マジョリティとマイノリティの立場が逆転する社会だからです。特定のツイッターアカウントなども同じですね。
 どちらも歩み寄って両者のストレスを少なくするのがよいのだと私は思いますが、それは難しいことですね。断絶するのか、話し合いの努力を続けるのか、それもまた道徳観の違いなのでしょう。


 気分転換をする。情報を遮断する(物理的に離れる)。もちろん、こうした方策も療法として大切です。
 しかしそうすると、(これは私の過去の体験ですが)どんなに丁寧に説明したつもりでも、「放り出して逃げるのか」「人の意見に聞く耳を持たない愚か者だ」「和を乱す不届き者だ、制裁しなくては」といった非難が一斉に投げかけられるかもしれません。たくさんおかしな噂話がなされる可能性もあります。
 それらも道徳観の違いでしょう。何をストレスと感じるか。そこに起因する違いでしょう。
 少なくとも私自身はそうした言葉をいわないようにしたい。
 ストレスを感じているのは一方だけではなく、両者が、そしてそれを傍観している誰もが傷むのだと思います。

瀬名秀明
posted by Hideaki Sena at 16:17| 仕事