2015年12月07日

日本SFコミュニティについて考えること(その5)

(その4からの続き)

 堀晃さんの『太陽風交点』(徳間文庫)の巻末に、小松左京さんと筒井康隆さんの連名による、日本SF大賞設立についての趣意書が掲載されている。すべてのSFファンはぜひこの文章を再読してほしいと思うくらいだ。どのような想いで日本SF大賞がつくられたのかが本当に熱く伝わってくる、とても素晴らしい文章だ。
 SFのプロたちが、本当に優れた作品を選ぶのだ、という気概が伝わってくる。当時の会員数は40数名だったようだ。そのほとんどから投票があった、と記されている。
 では近年の投票数はどうだろうか。私が会長だったとき、会員数は230数名だった。そのときようやく投票者人数は、広報担当や事務局の努力のおかげで、第一回のときと同じくらいに戻ったのだ。
 投票自体に不正はないと断言できるが、もやもやとした印象が残る大きな理由のひとつは、各会員の投票内容が明かされない、ということにあるのだろう。
 日本SF大賞の後に設立された顕彰では、たとえば本格ミステリ大賞のように、会員の投票内容がすべて公開されるものがある。たんにタイトルを挙げるだけはなく、投票コメントも書くことになっているようだ。本当はこのようなかたちならすっきりするのだが、日本SF作家クラブは投票内容を公開していない。私は会長だったとき、なぜ公開しないのかと聞いてみたこともあったが、会員のプライバシーに配慮するとかいった回答以外には、これといった明確な答えがなかったように思う。たぶん慣習でそうなっているに過ぎないのだと思う。
 だが実際に会長の立場になって投票を見ると、このままではとても公開できないな、と思ってしまったのも事実なのだ。多くの会員は何作も投票できるほど作品の読み込みもしていないのではないかと思えた(投票にコメントを書く必要はなく、タイトルだけ挙げればよかった)。スポンサーからお金を出してもらってこれか、というがっかり感は、確かにあった。
 なるほど、投票や選考の過程で不正はないかもしれないが、もう少しまともに運営できないのか、とは思った。これではスポンサーが離れていってしまうのも仕方がない、と感じた。
 もっとも、私だってきちんと毎年5作を投票していたわけではない。会長になる前は投票していなかったし、海外SFが好みの会員なら国内作品を5作挙げるだけでも大変だ。
 つまり、プロである会員たちに、まずSF作品に親しんでもらう、その仕組みを考える必要がある。少しでもその年の話題作を見たり読んだりしてもらうための雰囲気づくりが欠かせない。なんともはや、という感じだが、これが重要な課題であった。プロ作家はつくり手としてのプロなのであって、必ずしも読み手としてのプロではない。ここは小松左京さんの理想が高すぎたところなのかもしれない。

 一般からの信頼をより得てゆくためには、外部の視点へ開かれた団体であるとアピールするために、いずれは会員の投票内容を公開するシステムにするのがよいと思うが、私個人はあれこれいうつもりはない。
 少しずつ投票者数は増えてきているようで、よいことだと思う。選考システムも改善されてきているようであるし、SFファンは継続してよく見守りながら、ときに意見や要望もクラブに伝えながら、応援してゆけばよいと思う。

 実際の日本SF大賞は、たまたま著名な作家らが最終選考委員をやっていて、たまたま著名な企業がスポンサーについているというだけで、実態としては「○○町内会SF大賞」とさほど変わらない、ともいえる。だが多くの人は日本SF大賞をすごいものだと思っているし、新聞でも報道され、帯にもでかでかと煽り文が載り、多くの作家らはいまなお憧れを持っているはずだ。
 日本SF大賞を運営するなら、やはりクラブは責任ある団体としてふるまわなければならないのだと思う。クラブやSFコミュニティへの批判は燻っているがそれはごく一部の人のせいであって、大多数は無関係ですよ、と言う人がいるのはわかるが、そのロジックを日経「星新一賞」を受賞した小学生の前でいえるのだろうか。恥ずかしい団体として生きていけばいい、といった会員のコメントがTogetterにあったが、それは本当に親睦だけをおこなう団体の会員ならもっともな発言かもしれないが、開かれた側面を持ち続けたいのなら「恥ずかしい団体として生きていけばよい」よりも「少なくとも外から見られて恥ずかしくない団体でいよう」と言う方が、より多くのSFファンから賛同が得られるのではないだろうか。
 つまりここでも内部の視点と外部の視点の齟齬、ということが問題の根本にあるように思えるのだ。
 本当は、旧来のSFコミュニティとは無縁のSF顕彰やSF団体が世のなかにもっとあってもいい。いくつかの価値観が並存すれば自然と棲み分けもできてくるし、不満のガス抜きにもなるからだ。日経「星新一賞」はそのようになる可能性を秘めていたが、まあね、そのようにデザインするのはやはり難しかった。

 ここでまた休憩。もう少し続く。かなり疲れたのでいったん時間をおきたい。

(いったん休憩。その6に続く)
posted by Hideaki Sena at 01:53| 仕事

日本SFコミュニティについて考えること(その4)

(その3からの続き)

【親睦団体】

 さほど深刻ではない話題を少し差し挟みたい。たぶんこの項目は、多くの人にご賛同いただけるのではないかと思う。
 しばしば議論の焦点となることとして、はたして日本SF作家クラブは「親睦団体」なのか、という点がある。
 会則第一条に「親睦団体」と入ったのはそんなに古いことではなく、かつて大きな改定があったとき(山田正紀さんが会長だった時代)だと認識している(たぶん正しいと思うが、間違っていたらごめんなさい)。なぜこの文言が入ったのかは定かではなく、この文言が吟味された形跡も私自身は見つけられず、まあこれでいいやとなって入ったのだろう、というのが私個人の見解だ。
 よく日本SF作家クラブの体質がどうこう、とか、団体としての責任は、という話になったとき、「日本SF作家クラブは親睦団体であって、権威や利権など関係ない」という主旨の反論がしばしばなされる。Togetterでもそのように発言している会員がいる。だがこうした言葉が空しく響くのも実際のところではないだろうか。
 まず、本当に会員は「親睦」しているのか、という根本的な疑問。率直にいって、200名もの全員が全員、仲がよいということはないだろう。クラブ内でさらにいくつか仲のよい小集団があるが、全体としてはさほど仲がよいわけでもなく(ぎすぎすしているわけでもないが)、親睦を積極的に深めようとする雰囲気もなかった、というのが私の印象だ。個別にはいろいろ思うこともあったが、まああまり社会全体として重要な話ではない。いまは雰囲気も変わっているかもしれない。
 一方で、合議が難しい、というのは強く感じた。個人個人を尊重するあまり、多数決で物事を決めるということがなかなかできない。個人主義の社会だといえるのかもしれないが、何かを決めようとするとき「私の考えを無視するのか」と誰かが言い出せば決まらない、ということがありうる。だからなるべく現状維持でやり過ごそうとする。結果、重要な問題がずっと放置されたまま、次世代へ受け継がれてしまう、という構造上の問題がある。これはSFコミュニティの特徴のひとつだ。
「利権」は本当に存在するのだろうか。仲のよいもの同士でSF関係の書物を出版する、ということはよくあるようだ。ただし先にも書いたように、SF業界はもともとファンダム出身者が多く、友達感覚と仕事感覚の境界が曖昧なところがある。どこまでがOKで、どこから先は道徳的に問題がある、と線引きするのが難しいのだと思う。
 ただ、どのような形式であれ、そこで本が出版されたり、イベントが開催されたりするのであれば、業績が発生する。この業績がその会員の本業の業績に繋がったり、金銭や名誉が発生したり、ということもあるだろう。こうなると倫理的によいかどうかの判断は難しくなる。この文章でも個別に話を進めてゆく。
 日本SF作家クラブは、ときおり「後援」や「協賛」というかたちで、外部のイベントに協力することがある。宝塚市立手塚治虫記念館や世田谷文学館の展示会、日経「星新一賞」、などがこれにあたる。
 こうしたとき、金銭的な恩恵が発生する場合がある。宝塚市立手塚治虫記念館の展示会のときは、会員はコースターにメッセージや絵を書いたら入場料がただになる、という取り決めになっていた。これは厳密にいえばクラブ会員が利得を得ているわけだ。
 どうして親睦団体のクラブが外部イベントの後援や協賛に名を連ねるのかということだが、「なぜ私(たち)に何のことわりもなくSFのイベントをおこなうのか」という不満がクラブ内部から出てくる可能性をあらかじめ防ぐため名前を使っていただいている、ということなのだと私は思っている。会員のプライド、自尊心を満足させるための措置だと言うことである。ここは会員によって見解が分かれるところだと思う。そうではない、という人もきっといるだろう。必ずしも本当にそういうクレームや愚痴を言ってくる人がいるわけでなくても、「後でもめ事になりたくないから」という理由で先手を打ちたいと考える人がクラブ関係者や業界から出てくることは実際にある。判断が難しいところではある。
 50周年記念プロジェクトの刊行物が、むしろふだんSFをあまり出していない出版社からよく出ていたのをお気づきになった方もいることだろう。そうした出版社は純粋に、著名なSF作家が集まるクラブと一緒に仕事ができるのは光栄です、とおっしゃって、企画を実現してくださったのだ。日本SF作家クラブという名前にはステータスがある。これは事実だ。逆にクラブの実情(?)をよくご存じの出版社からは渋られることが多かった。ここは私の実感である。
 日本SF大賞も、スポンサーを得て運営がなされてきた。社会的なお金が動いているわけだ。そうした部分を脇へ置いて「私たちは親睦団体です」というのでは、ダブルスタンダードだといわれても仕方がない。会長職に就く者は、ここで強いジレンマを抱えることになる。内部向けの発信と、外部向けの発信を使い分けなければならず、どちらの発言にも誠実であるためには、自分のなかだけで矛盾を消化するより他に道がない。とてもストレスのかかる立場だ。
 本当に親睦を趣旨とする団体だと言いたいのなら、日本SF大賞などやめて、外部と接触することなく、ただ会員同士で親睦だけをしていればよい、と私自身は思う。顕彰も会員同士でやりとりすればよいことのように思える。でも実際はそうではなくて、小松左京さんがかつて夢想したような、SFのプロ集団として責任ある団体でありたいという想いも残ってしまっている。ここが多くの問題を生み出しているところであり、つまるところ多くの会員が小松さんの理想に追いつけなかったことが、それらの問題の主たる原因だと私は思うのだ。
 あるときは「私たちは親睦団体です(だから社会的責任とは無関係です)」といい、一方では「日本を代表するSF団体だ」というような世間からの誤解を放置して顕彰や協力協賛をおこなう。少なくともそのように見えてしまう。これが一般読者からの主たる不信感の原因であるように思える。この部分は多くのSFファンも納得していただけるところではないか。
 科学研究の世界でも似たようなことがある。研究者自身は、うそをついていない。しかし研究機関としては大規模予算を取りたい。だからメディアが「夢の研究」と言ったような感じで肯定的に報道するのを、つい放置してしまう。自分たちはうそをついているわけではない、メディアが勝手に想像を広げて報道しただけだ、というスタンスを取りたがる。これで混乱したのがたとえば初期のiPS細胞報道だと思うが、どこかで歪みが出てきてしまう。「正確な情報を」と苦言を呈する研究者はよくいるのだが、それが「自分たちにとって都合のよい情報を」であってはならないのだと私は思う。

(その5に続く)
posted by Hideaki Sena at 01:52| 仕事

2015年12月06日

日本SFコミュニティについて考えること(その3)

(その2からの続き)

 勇気ある決断、と上に書いた。私自身の体験を交えてもう少し詳しく記す。
 私が日本SF作家クラブに所属していたときのことだ。当時、私は会長だった。新宿の喫茶店で、私を含め4名の打ち合わせがあった。そこにはこれから日本SF作家クラブに入りたいという方が同席しており、彼の推薦者もいた(クラブへの入会には3名からの推薦がまず必要)。
 会合自体は和やかに進んだのだが、その方はかつて会員の反対に遭って入会が拒否されたケースがあることをご存じのようだった。入会の話になって、それでふと「否決されたらいやだなあ」と笑いながらおっしゃった。
 そのとき推薦者が漏らした言葉は忘れられない。「そんな奴は、粛清してやる」。そうか、これがこの人の本心なのか、と思ったものだ。
 私がクラブ内の人間関係で疲弊を感じていたとき、上野駅の近くのカフェで、あるクラブ会員と話をした。いろいろと相談に乗ってくださったのだが、帰り際に私が退会したいと思っていることに関して、その方がさらりとおっしゃった言葉も忘れられない。「そういうことをいうのは、クラブに対する脅迫になる」。
 日本SF作家クラブは、基本的に推薦者があって入会が許される。だから退会したいと意思表示するのは、その推薦者たちの顔に泥を塗ることになる、という価値観があるようだ。全員がこうした考えを持っているわけではないだろうが、小さな共同体社会ではなるほどこのような考え方もあるだろう。退会しにくい雰囲気があると感じる会員は存在するだろう。
 少しざっくりとした話になるが、SFコミュニティにいると「それは恫喝だ」という表現の指摘を目にすることがある。非常に強い表現で、こちらはびっくりする。価値観の違いを見せつけられる場面だ。「それはおかしいじゃないか」という問題提起が、「恫喝だ」と感じられてしまうケースがあるように思える。また「恫喝だ」といえば相手がびっくりして黙るというケースを何度も体験してきた人たちが、安易にこの言葉を使っているように思えるときもある。
 話を戻すと、こうした言葉が会員から出てくるのは、いじめ構造があるということではないだろうか。個々人の言動がどうこうではなくて、そういう構造がある、ということである。

 少しでもよい社会にしてゆくためには、外部の視点を現場に投入することだ、というのは内藤朝雄『いじめの構造』にも書かれていることだ。
 STAP細胞問題が生じたときも、理研は外部諮問機関を設けてクリアな解決を図ろうとした。すべてがうまくいったわけではないだろうが、少なくとも外部からの評価を受け入れて改善しようと努めたわけだ。私はよく思うのだが、いま私たちの間で問題になっていることの本質的構造には、かつてどこか別の社会で問題になったことと似た部分が必ずある。先行例でどのような問題解決が図られたのかを知ることはとても大切だ。日本SFコミュニティはそれらの先行例をきちんと見て、自分たちの今後に活かすべきだと私は思う。
 内藤朝雄『いじめの構造』にも書かれている通り、いじめの現場で力を持っている人でも、別の社会に行けばその力がまったく通用せず、いじめることができなくなる、ということはよく知られている。いじめ構造は小さな共同体社会で発生しやすい。どうしてもそうした社会では、自分たちの仲間同士で集まってしまいがちだ。
 日本SF作家クラブは「親睦団体」である。だが一方で、かつての小松左京さんが願ったような、SFのプロ集団として社会に責任のある発信をゆく集団でありたい、という動きが日本SF大賞などの行事に残っている。SFのイベントがミュージアムなどで開催されれば「後援」や「協力」で名を連ねる。それは団体として、社会的に責任を持つということではないか。このダブルスタンダードは日本SFコミュニティが抱えてきた本質的問題でもある。「おたく」社会の内輪な感じと、「明日の大文学」と小松さんがいった開かれた未来のイメージがずっとぶつかりあってきて、もうそろそろごまかしきれない時代になっているということではないか。

 私自身はすでに日本SF作家クラブを退会した立場であるから、現在の運営に関してどうこういうつもりはまったくない。ただ、私からの想いとして、次に会長職を引き受けてくださった東野司さんには、次のようなことをお願いしていた。
 まず会則や日本SF大賞のシステムについては、若手の人たちで委員会をつくり、そこで存分に議論してもらいたい。若手といってもSFコミュニティは全体的に年齢層が高いので、まあ50歳未満というところか。
 日本SF大賞のシステムは東野さんの時代に改定され、一般からの推薦を受けつけるようになった。少しずつ会則も改定の動きがあるようだ。とてもよいことだと思う。
 だからクラブは、「私たちは健全なクラブ運営の実現のために、このような改善をおこないました」というアピールを積極的にしてゆくのがよいと思う。そうしたアピールをおこなうことによって、ひとつには外部からの評価を促す効果がある。
 もうひとつ、私が会長時代に心がけたのは、何かイベントをおこなうときは必ず外部の人材を入れるということだった。50周年記念プロジェクトのとき、内輪で進めようとしているように見受けられる会員がいたときは、「より開かれたイベントとしてデザインしてほしい」と必ず伝えていた。そのために激昂されたこともあったが、それは外部の視点が入るとその人にとって困った事態になるからだろう。自分の権力が発揮できなくなってしまうからだ。
 しかし会長職のようにトップに立つ人間は、あえてその構造を崩してゆく必要がある。すべてのイベントでそのようにするわけではない。ときには仲間内で存分に騒げばいい。それが「親睦団体」たる所以である。仲間内で騒げるイベントも(ガス抜きとして)別途用意しておくのが肝心だ。
 しかし50周年記念プロジェクトのように一般へと開かれたイベントなら、外部の価値観や倫理観が入った組織としてデザインしてゆくことも必要ではないだろうか。そうすれば少なくともいじめ構造は成立しなくなる。それでは居心地が悪い、という人がいるのなら、その人こそがいじめ構造をつくっている人だ。
 ときと場合による切り替えが必要であるはずなのに、その切り替えがうまくいかないのがいまの日本SFコミュニティの問題点なのだ。
 しかしこの問題は、ひとりひとりが考えることで、少しずつ改善してゆくことができる。私たちにできる最初の一歩だ。

 ここでいったん休憩する。次は仲間内社会と一般社会の倫理観の相違、ゴシップの件などについて書く。

 なおこの一連の文書はいずれ削除するつもりです。どうかご理解をいただければ幸いです。
 まだこの文章は書いている途中なので、どうか刹那的な反応をすることは控えていただければ幸いです。このことについても後で思うところを詳しく書きます。

(ここでいったん休憩。その4へ続く)
posted by Hideaki Sena at 17:07| 仕事