2015年12月07日

日本SFコミュニティについて考えること(その8)

(その7からの続き)

【おたおた】

 いじめがあるというのなら誰がいじめているのか名前を出さないと意味がない、というご意見があるのだが、私は必ずしもそうだとは思わない。
 誰かをつるし上げたりする必要はないのであって、この文章の目的は、未来をつくるために、ひとりひとりができることがあるのではないか、自分もそれに参加できるのだ、という気持ちを持っていただくことである。戦争体験者が「戦争はいけない」と話をすることや、その体験談について私たちが耳を傾けることが大切であるのと同じで、いまは何という名前の上官や同僚からいじめに遭ったと告発することに意味はない。そこにあった事例から、自分の日常生活や身の回りのことと比較しつつ、次の一歩をどう踏み出すか自分自身で考える、ということが大切なのだと私は思っている。
 この考えはさほどねじれたものではないと思うのだが、意外とSFコミュニティ内部では伝わらないという印象がある。このような話をするより前に、そもそも場を混乱させたことのほうの罪が重い、という考え方があるようだ。このため話は平行線になりがちで、根本的な解決がなされないまま全員が疲弊して終わる、ということになってしまいかねない。
 ここから先はさらに進んで、精神性の話になってゆく。個別の例と全体の例をなるべく切り分けながら話を進めるつもりだが、「こういう印象、雰囲気があるのでは」と投げかけることもある。「おたく」の精神性、というものについて、社会道徳や脳倫理の観点から論じたケースはいままであまりなかったのではないかと思う。あまり先行例のない議論なので、書く方も非常に難しい。
 この文章における私の目標は、50周年記念プロジェクトと同じ、「未来を想像し、未来を創る」だ。イベントや書籍出版も大事だし、みんなで集まってわいわいと愉しむのも大切だが、SF社会をよりよいものにしてゆくのも、未来を創るということではないか。いざこざだとかどろどろだとかいうのではなくて、SFの人たちが率先して自分たちの社会を変えてゆけばいい。
 そのためにはそこにある精神性とはどのようなものであって、どこが困難であってどこに長所があるのかということを、ひとつずつ見てゆくことも必要だと私は思うのだ。
 なるべくときおり、緊張が解れる「抜け」の文章を入れるつもりだ。それがないと疲れてしまって、書く方も読む方も「自分には関係ない」と考えてしまいがちだから。「抜け」はあっても、問題提起と解決案はしっかりしたものでありたい。自分に文章力があることを祈ろう。

 最後の本論に入る前に、やや軽い話題をする。
 私の印象だが、SFコミュニティは緊張に弱い、ということがあるような気がする。後で述べようと思うが、何か議論が難しくなったとき、「騒ぎが起こった」という表現をしたりするが、本当にそんなに騒ぎが起こっているかというとそんなことはなくて、実際はコミュニティ内でおたおたしてしまうことが騒ぎそのものであったりする。ここは私の印象だと、SFコミュニティ最大の弱点であるような気がしていて、私たちみんなで充分に気をつけたいところなのだ。
 なぜこのようになるかと考えると、気質の話になってしまって慎重に書くことが大切なのだが、あえてまず直感的に言わせてもらえば、SFコミュニティの人の多くが共感性の高い人たちだからではないかと思っているのだ。さらに直感的に言うと、一般的な人がシンパシー3、エンパシー3くらいなら、SFコミュニティでよく発言したりする人はシンパシー4、エンパシー2くらいの感じがしている。ここは本当に印象の話だと思ってほしい。厳密にあれこれいえる話ではない。あえてこのような印象の話から始めるのは、それならこういう部分に気をつければいいのではないか、と言う話が納得しやすくなると思うからだ。即効性のある部分だからである。

(その9に続く)
posted by Hideaki Sena at 21:28| 仕事

日本SFコミュニティについて考えること(その7)

(その6からの続き)

 以前のブログ(削除済み)で、私はジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ』(岩波書店)に触れ、グリーンの提唱する「メタ道徳」の実践は、SFコミュニティの建設的な発展にも重要な示唆を与えてくれるのではないか、という見方を提示した。「笑い」で終わるのではなく、「メタ道徳」の実践まで行くことが、そろそろ求められる時代になっているのではないかと思っている。
 グリーンは、私たち人間が小集団の道徳観に縛られた「道徳部族」(モラル・トライブズ)であるといっている。私なりの解釈を加えた上でもう一度要約しよう。もともとヒトは小規模採集狩猟民だったわけで、そうした小集団で物事がうまく運ぶよう道徳観も進化してきた。小集団内の《私》対《私たち》問題なら、共感性という心の働きがその効果をよく発揮する。これはデジカメにたとえるとオートモードのようなもので、わりと自動的に働く脳の機能である。
 ところが価値観の異なる別の部族と向き合うためには、オートモードではなくマニュアルモードで、より理性を働かせなければならない。《私たち》対《彼ら》の問題になるからだが、これが私たちの脳には難しいのだ。
 グリーンは書いていないが、私自身はここに他者の心と同化する共感性(シンパシー)だけでなく、相手の気持ちを忖度する思いやり(エンパシー)の能力も不可欠だと思っている。グリーンはオートモードとマニュアルモードの使い分け、バランスが必要だと説いているが、これは感情と理性のバランスであると同時に、シンパシーとエンパシーのバランスの大切さをいっているのだと私は思っている。
 ネット環境の発達した現代社会では、気の合う仲間と地域を離れて一緒に楽しみを分かち合える利点もあるが、他の道徳部族と接触する機会も多くなる。そのとき、いままでの《私》対《私たち》ではなく、《私たち》対《彼ら》の道徳問題が起ち上がる。お互いの道徳観が違うことを理解した上で、ではどうするかという「メタ道徳」の実践が大切なのだ、というのがグリーンの本を読んで私が感じたことであった。

 このような話をすると、そんなことを言われても知らんよ、自分は自分で勝手にやっているよ、という反応が出てくるかもしれない。私は、それはそれで、ひとつの見識としてありだと思う。
 先日、グリーン『モラル・トライブズ』の巻末解説者である京都大学の阿部修士先生からお話を伺う機会があった。そのなかで、グリーン先生はメタ道徳についてあのように書いていらっしゃるが、ほとんどの人は小集団のなかで生きているのだ、という話になって、なるほどその通りだと思った。実際、私たちは多くの場面で、小集団内の一員としてふるまっているではないか。そのときは《私》対《私たち》の問題が主なのであって、それでよいのだと私は思う。
 SFコミュニティの話に戻すと、本当に《私たち》対《彼ら》の問題に取り組まなければならないのは、たとえば日本SF作家クラブなら会長職、内部と外部の橋渡しをする役目の人なのだ。事務局、広報担当もまたそうだろう。会長職をやった身からすると、ふだんはオートモードでまったくかまわないが、外部と接触するイベントのときはマニュアルモードを少し意識してほしいし、また《私たち》対《彼ら》の問題に取り組まないといけない立場の人がいるのだということは、少し意識のどこかに置いていてほしい。こういう立場になるのは、権力を手に入れたいとか、名誉を授かりたいとか、そういったこととはまったく違うことなのだ。
 SFコミュニティの問題において、全員がメタ道徳をふだんから実践する必要はないが、腰を据えてメタ道徳の実践に取り組んでいる人たちがいることは意識し、そこに何か自分がサポートできる部分はあるだろうか、とひとりひとり考えてゆくことは、とても大切だと私は思う。
《私たち》対《彼ら》の問題に取り組む人にとって、本来仲間であると思っていたはずの周囲からの野次馬的反応は、実はかなり精神にこたえる。ついふらりと弱みを見せてしまうこともあるだろう。いまの会長である藤井太洋さんにもそのような気苦労がきっとあるだろう。前会長の東野司さんにも、私以上の大きな困難がたくさんあったはずだ。そういうときはたぶん、周囲も《私》対《私たち》の環境にいったん戻って、クラブ内部やSFコミュニティ内部で共感的にその人をいたわることもまた大切なのではないかと思う。そしてまた《私たち》対《彼ら》の問題に取り組むのだ。「仲間」「親睦」とは、そのようなときのためにあるのではないか。
 そのことは、決して忘れてはいけないのだ。

 また少し休憩。最後にゴシップの話について述べて終えたい。
「SF」の精神性と「おたく」の精神性、ということについてもう少し踏み込みたい。ここがいちばん難しい。

(ここで休憩。その8に続く)
posted by Hideaki Sena at 14:50| 仕事

日本SFコミュニティについて考えること(その6)

(その5からの続き)

【メタ道徳】

 ここまで、日本SF作家クラブやSFコミュニティでしばしば問題として議論されるようなことの多くは、集団内部の視点と外部からの視点の擦り合わせがうまくいっていないことに原因があるのではないか、と言う話をしてきた。そしてこれはもともと解決が難しい問題ではあるが、ひとりひとりの小さな努力によって改善できる可能性もある、と建設的な意見も述べてきたつもりだ。
 このような文章を書くことは、私にとっても非常にリスクがある。個々の文意にはとうぜん反論も出るだろうし、こうした文章を書くことで「瀬名はトラブルを抱えているらしい」「瀬名はめんどくさい奴だ」と思われて、結果的に作家生命を縮める可能性があるわけだ。
 それでも誰かが書いておいた方がよい文章だと思っているから、書いている。
 内部で話し合うべきことと、みんなで話し合ってよりよい社会づくりをしたほうがよいことがある。そこの区別はつけているつもりなので、繰り返すがどうか刹那的な反応はなさらず、できれば何度か読んでいただきたい。

 ここから先は、日本SF作家クラブだけの話ではなく、SFコミュニティ全般について思うことを述べてゆく。いままで他人のことだと思っていた方も、ひょっとしたらこれは自分にも当て嵌まるのかも、というところが出てくるかもしれない。動揺が大きくなる可能性がある。
 だが、私はここであなた自身を直接批判したりしているわけではなく、コミュニティ全体の構造の話をしているのだということを、どうかご理解いただきたいのだ。
 読んでうんざりする、しんどい、というご意見もあるだろうが、最終的には多くのSFファンの方々に建設的な気持ちになっていただくことを目的としている。いったんは問題を見つめないと、次の行動には移れないと思うのだ。


 SFの世界では「SF」の精神性と「おたく」の精神性を取り違えていることが多くの問題の原因ではないか、と先に記した。これは私の直感に過ぎないのだが、たぶんそんなに外れていないのではないかという気がしている。
 ここで私は、「おたく」そのものを何か批判したいわけではないのだ。たんなる「おたく」ではなく、「おたく」の精神性、という表現を採っている。
 人間の気質について語るのは非常にデリケートな問題で、もちろん断定的に何かを言うのがまずいことは充分に承知している。ただ、人間の本性に関する科学的研究というのはいろいろとおこなわれており、とくに最近は人間の道徳観と絡めて興味深い知見がいくつも出てきている。これはいま世のなかが非常に生きにくくなっていて、とくにウェブや交通機関の発達で異分野と接触する機会が増え、視点の齟齬の問題が日常的にも起こっていること、またそうして社会がグローバル化しているように見えるにもかかわらずテロや政治問題などが次々と起こって、なぜ人間同士がこんなにもわかり合えないのか、と考える機会が増えてきていることもあるように思われる。いままで内輪でやっていたことが外部と接触することで問題が表面化してしまう、という事件も目立っているようだ。
 本来SFは、こういう問題にも向き合うのにふさわしい表現形式であったと思うのだ。しかし現代のSFは、なかなかそこへずばりと切り込めていないように感じられる。伊藤計劃さんの作品が読まれていることの一部にはそうした背景もありそうな気がしている。
 まあ、あまり話を大きくしてもどうかと思うので、SFコミュニティの話を。

 かつてSF分野では、よく「相対化」「笑い」ということがいわれていた。
 見解の異なる集団があって、そこでいざこざが起こっている。それを「相対化」し、「笑い」として表現する、という作品群は、確かにSFの一時代の特徴であったように思う。
 それでいまの時代、この手法は少なくとも実社会で問題解決を図るにあたって、そろそろ限界を迎えているのではないか、という気がしているのだ。SF作品としては成立しても、SFコミュニティの問題を解決するには、この方法ではもうだめなのではないか。
 たとえば、SFコミュニティには構造的な問題がある、という話になったとき、ウェブ上で議論がどのような経緯を辿るか、よく見ているとわかる。何となくパターンがあるように感じられる。問題提起があって、最初の数日はそれなりに建設的な意見も出るが、やがて野次馬的な反応が広がって収拾がつかなくなり、一方で外部から「これだからSFは」などと短絡的にいわれるようになると、SFコミュニティの一部からわざとふざけたような発言が相次いでくる。「相対化」「笑い」で自己防衛を図るかのようだ。緊張に耐えられなくなって笑う、という状態に似ているような気がする。相対化ができているということは、《私たち》と《彼ら》の視点が異なるということは理解できているのだ。しかしそこから先、「笑い」に持ってゆくことで、問題解決へ向けての努力は放棄されてしまう。実社会ではこれが繰り返されると徒労感が募ることになる。議論しても先へ進んでいないじゃないか、という気持ちになるのではないだろうか。
 そして申し訳ないが、こういうときにSFコミュニティから出てくるギャグは、本当につまらないのだよ。笑えないのだよ。内輪の感じが滲み出てしまっているようで、なんだか私は残念な気持ちになる。「SF」の精神性と「おたく」の精神性の取り違え、ということの一例だと思う。

(その7に続く)
posted by Hideaki Sena at 14:47| 仕事